写真でつづる流山の道 未分類

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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階段踏切!

久しぶりの投稿になります。いろいろ忙しくて...
みなさんは「階段踏切」と聞いてどういう風景を想像しますか?
「踏切に階段があるんです」と言えばわかりますか。
でも踏切に階段があったら車が通れないよね。
跨線橋や歩道橋ではなくて、「踏切」であることが新鮮なのです。まずは画像をご覧ください。
場所は、東武アーバンパークライン野田線(長い名前!)おおたかの森駅西口を降りたところ。
線路をまたいで北口と連絡する位置にあります。

ブログ2017_0707_094249-DSC09811
線路の高さから向こう側を見たところです。普通と何かが違う、と感じましたね。
そう、向こう側を歩いている人のヒザから下が消えています。こちらから行くと、ストンと向こう側に落ちてしまいそうです。

ブログ2017_0707_094322-DSC09812
自転車は乗ったまま通れます。

ブログ2017_0707_094024-DSC09805
これが「階段踏切」である動かぬ証拠。

ブログ2017_0707_093721-DSC09799
向かい側は再開発中で大きなビルができるのでしょう。でもこの踏切は自動車は通らないという計画のようです。

ブログおおたかの森駅;北口
その再開発の現場。さら地状態から撮影しているのですが、現在あわただしく基礎工事が進められています。

ブログおおたかの森;バスターミナル
西口のバスターミナルは、間もなく完成です。

というわけで、流山市では今「おおたかの森駅」周辺が生まれ変わろうとしています。
前回のブログで紹介した、流鉄の流山駅や平和台駅周辺の「本町界隈」に代って、流山のヘソとなりつつあります。
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  1. 2017/07/08(土) 07:12:59|
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流鉄流山線;流山駅

流鉄流山線を馬橋から乗ってきました。そして今「流山」に降り立ちます。
東側は切り立った崖で圧迫感がありますが、西側には何かが待っている予感が漂っています。

DSC08489.jpg  2010_0720_081821-DSC01480.jpg
降車した私を駅員さんが改札で待っている!イイネこの空気!もちろん切符を渡すのです。

DSC08487.jpg
ホームで駅員さんが必ず安全を確認します。最近では大きな鉄道駅では見られなくなった風景です。

2011_0604_091221-DSC03136.jpg  2011_0604_091200-DSC03135.jpg
駅舎内部。こじんまりしていて、切符を買って5歩もあれば改札です。
DSC08485.jpg  2010_0610_150351-DSC01164.jpg
あなたの最寄りの駅の時刻表もこんなですか?    キュウクツそうに止まっている「菜の花号」。
2012_0408_124610-DSC07519 パノラマ写真
これが「流山駅東口」と言っても信じてもらえません。ナンニモありません。歩道橋を渡って下りると駅です。
2011_0604_091408-DSC03140.jpg  2010_0527_152351-DSC01092.jpg
カワイイ駅舎でしょ!赤い三角のトタン屋根がいいです。
2010_0610_150317-DSC01163.jpg DSC08507.jpg
駅の東側は高台になっていて、市役所があります。その前に、ブルーシートで囲まれた土地は、住宅になるらしいです。
駅前の一等地です。いよいよ東口発展の始まりです!
59流鉄流山線 「流山100か所めぐり」の案内板

2011_0604_091136-DSC03134.jpg
こんな銘板もあります。

房総の魅力500選 
         千葉県
     「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉
   県の人口が500万人に達したのを記念し、
   魅力あるふるさとづくりの一環として昭
   和63年1月に選定されたものです。

総武流山電鉄
 大正2年(1913)、町民116名の出資によって、流山軽便鉄道
株式会社を設立。
 大正5年(1916)、馬橋駅と流山駅の間を結ぶ5.7キロメート
ルで営業を開始しました。
 人々のくらしと密着した交通機関として親しまれています。

  1. 2017/04/19(水) 07:53:01|
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流鉄流山線:平和台駅

 今日は流鉄の平和台駅です。名称がスッキリしていて、住み心地がよさそうな街です。西側駅前にはイトーヨーカドーがあり、東側は住宅地、市役所や図書館へ歩いて行ける。ブログ子が住んでいる北辺の街よりなにかと便利な地域です。
撮影のアングルは決まってしまうので画像の数は少ないです。それを補う意味で、近くの大原(だいばら)神社境内にある「平和台土地区画整理事業完成紀念碑」を紹介します。それによるとこの辺りは〝冨士見の里〟というらしいです。知らなかった!!

平和台DSC00741
角ばった駅舎が特徴的です。駅前の広場も程よい広さです。
平和台DSC08512
平和台DSC08511
ホームにかかっている屋根は、役目を果たしているのでしょうか?今度、雨の日に来ようと思います。

平和台DSC08513
駅東側から踏切越に見た画像です。イトヨは左手です。

平和台碑2010_0817_085424-DSC01698
大原(だいばら)神社境内にある、「平和台」の経緯を記した碑。ナゼ「平和台」なのかの説明はない。「冨士見の里」がどれほど地域に浸透しているか、ブログ子にはわからない。平和不動産㈱が関係している、と耳にしたような...

富士見の里            流山市長 眉山俊光
平和台土地区画整理事業完成記念碑
 この地は、その昔、風早荘八木郷に属していたが、延宝元年(1673)鎮守の氏神を大原(だいばら)に創建するに際し、西平井村となったといわれている。
 当地は低地の豊穣な農耕地と台地の緑豊かな林からなり、古くから景勝の地として下総の風情を代表する里であった。
明治時代の、流山八景には、「平井の暮雪」と題し“平井村山ふところに灯の見えて里人帰る雪の黄昏”と詠われていた。
 第二次大戦後、未曽有の苦難を乗り越えた日本の再建は驚異の経済成長をもたらし、首都近郊の流山はベッドタウンとして都市基盤の整備が着々と実施された。
 近年になり、南流山にJR武蔵野線が、又北部地域には常磐自動車道が走り、更に待望の常磐新線(首都圏新都市鉄道)が市内に三駅を予定して縦断するという画期的な交通体系が実現されつつある。
 当平和台区画整理事業の区域は熊野坂(市道237号線)と大原神社参道(市道54029号線)とに跨る8.7ヘクタールで既にその西側及び北側は区画整理事業によって字区域を平和台として良好な住環境が整備されている。
 当区域は総武流山電鉄(株)流山線平和台駅より近距離の市街化区域であり、台地と低地の比高差が17メートルもある複雑な地形と狭小な曲折道路であるため、地元有志よりは、早くから健全な市街地造成の必要性が唱えられていた。
 このことより、昭和46年(1971年)から地元地権者と、関係機関で協議を重ね、昭和56年(1981年)7月8日に準備委員会を設立し、漸く平成元年(1989年)3月6日に組合の設立認可を受け事業に着手した。以来9年、小区域で、しかも傾斜地、さらに事業途中でのバブル経済の崩壊という困難さを技術的に又財政的に克服し、緑に囲まれた安全性と住み良さを重視した整然たる街が誕生したのである。
 歴史的に、この地は大原神社の西側に冨士見公園があった場所であり、造成地は眼下に流山市街地の全景と「江戸川」の清流をながめ、更に遙か西方に「霊峰冨士」の雄姿を拝む場所としてこの街一帯を「冨士見の里」と命名した。
 最後に本事業の完成に当り、永年に亘る県・市のご指導ご援助並びに当事業関係者の献身的なご尽力、更に多くの善意ある協力者の事蹟を後世に伝えるためここに慎んで銘記いたします。
    平成10年3月吉日
         流山市平和台土地区画整理組合

                                      <読了お疲れ様でした。>
  1. 2017/03/26(日) 14:31:51|
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流鉄流山線各駅停車(3)

流鉄流山線の各駅を紹介していきます。きょうは3回目「鰭ヶ崎駅」です。
鰭(ひれ)という漢字が見えますか?大きくすると...
  魚偏に老人の老と日、と書きます。
が年いてに輝くヒレ』とでも覚えましょうか。
隣の駅「小金城址」までは松戸市ですが、坂川を渡ってここは流山市です。
鰭ヶ崎という地名の由来をご紹介しましょう。
『むかし、弘法大師が立ち寄った高台には五色に輝く美しい池があり、竜王が住む所とされていた。大師が山上に立つと、竜王が老翁の姿となって現れ、「この山は東方の福田であり、薬師如来が常住すべき土地であるから、瑠璃光仏を彫って寺を建て、久しくこの地を守ってもらいたい。そして、この山を守竜と呼び、寺を東福としてほしい。」と請願した。大師はさっそく仏像の材料となる御衣木(みそぎ)を探したところ、突然竜が現れ、霊仏を大師にささげ、大師はこれに手を加えて薬師如来を刻んで本尊にした。弘仁五年(814)大師42歳の時であった。竜が背鰭の先を少しばかり残していったので、この地を「鰭ヶ崎」と呼ぶようになった。』というものです。(「チェック!流山のむかし」流山博物館編著・流山市教育委員会発行2016.3.25改訂第6版\780・・・p.48 より)
これは「東福寺縁起」に書かれていることです。東福寺についてはまた別の機会にご紹介します。
それでは画像をお楽しみください。
鰭ヶ崎1  読めますよね。
鰭ヶ崎208545
線路に立ち入ってはいません!踏切で撮りました。
鰭ヶ崎3DSC00696
駅前です。
鰭ヶ崎4DSC00697

鰭ヶ崎5DSC00705

鰭ヶ崎7DSC08532
踏切とホームが近いです。道路からホームに入るような人はいません!(ヨネ!)
DSC08536.jpg
「流星号」・・・リュウセイだと思うのですが。ナガレボシとも読めそうな...
駅員さんがチャンと見守っている姿が好きです。

  1. 2017/03/03(金) 16:31:03|
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流鉄流山線:小金城址駅

流鉄流山線の駅を紹介して3回目です。今日は「小金城址(こがねじょうし)」駅を紹介します。
昔、このあたり東葛地域を支配していた「高城」という殿様がいました。豊臣秀吉による小田原征伐で終わりを迎える(1590年)までこの地域の本拠としていたのが「小金城」です。「城」といっても「山城」で、土塁と堀で囲んで、建物があったくらいです。天守閣などはありませんでした。近くの「歴史公園」にその名残を見ることができます。

2014_0924_104606-DSC00986.jpg
単線の流鉄流山線ですが、ここで上下線がすれ違うことができます。この時は、黄色の〝菜の花号〟と青い〝流馬号〟がすれ違いました。
2016_0216_095034-DSC06288.jpg
〝脚を踏ん張って立つ恐竜〟に見えませんか?すぐ右横の建物は駅舎ではありません。
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連絡橋からホームを眺めたところです。下の川は〝新坂川〟です。
2016_1208_090414-DSC08552.jpg
私には最近このような階段が脚にこたえるようになりました。
2016_1208_091317-DSC08555 Stitch
私は〝マイ踏切〟と名付けました。奥のお宅専用の踏切のようです。警報器も遮断機もありません。「この先私有地」の看板があります。
2016_1208_091454-DSC08559.jpg
山の中に通じる道。これも〝マイ踏切〟でしょうね。
  1. 2017/02/02(木) 10:37:44|
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