写真でつづる流山の道 2012年03月

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

(73)大原神社

「流山新100か所めぐり」第73番「大原神社」(‘だいばら・・・’と読みます)



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富士山と東京スカイツリーが見える(そうです)。

2012_0201_104805-DSC06230.jpg富士登山記念碑(左),伊勢参宮記念碑(上右),阿夫利神社(下)の石碑がある。




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                                          精密水準点がある。

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  1. 2012/03/31(土) 08:12:06|
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(72)大宮神社

「流山新100か所めぐり」第72番「大宮神社」(TOP30-18)



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                                        ここの参道には〝大杉神社〟・・・

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ここの参道には〝大宮神社〟・・・二つの神社を祀っているのだ。 石段を登りつめると町並みが望める。

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  1. 2012/03/30(金) 07:29:51|
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(71)光照寺

「流山新100か所めぐり」第71番「光照寺



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本堂の右手にもう一つお堂がある。本堂とは違う扁額が掲げられている。












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南東側からの遠景。2012年2月現在,南側では大掛かりな造成工事が行われている。しばらくするとこの風景も大きく変わるだろう。あるいはこの景色は見られなくなるかもしれない。

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                                      “江戸川八十八か所巡り 第二十七番札所”の祠。
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左の石碑:『船戸代官 須藤力五郎首実検の地 本多紀伊守陣屋跡』(昭和54年2月吉日建之)
右の墓石:須藤力五郎の墓

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                             永井仁三郎[61番「葛飾県印旛県庁跡」参照]の墓もここにある。


  1. 2012/03/29(木) 08:08:29|
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(70)本行寺

「流山新100か所めぐり」第70番「本行寺



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上の2枚の写真は2010年8月20日撮影,下の2枚は2012年2月1日撮影。震災で壊れたのだろうか,修理中だ。修理が終わったらまた訪れよう。高台の端なので南に広がる町並みが見える。
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流山人形供養会発祥の地』碑。人形供養は,現在では,駒木の「成顕寺」で行われている。


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  1. 2012/03/28(水) 07:32:25|
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(69)庚申様

「流山新100か所めぐり」第69番「庚申様



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                                      背後の壁は“流山キッコーマン”の建物です。
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2011_1216_095026-DSC05092.jpg流山三丁目庚申講関係資料(113点)
                 流山市指定民俗文化財第七号
 流山三丁目三二二に所在する二基の庚申塔には、祠内にある元文五年(1740)造立の板状駒型と祠外に文化十五年(1818)造立の兜巾(ときん)型がある。旧根郷六の組を中心とした庚申講によって、その祭祀が執り行われていた。祭祀用の諸道具や祭祀参加芳名帳とともに、無尽に用いられた籤(くじ)やその記録などが保存されている。
 無尽は、昭和三十年代後半まで行われていた。現在は、毎年初庚申の日に祠に幟や幕を飾りつけ、お供えをして祭祀を行っている。
 市内唯一残る庚申信仰の祭祀行事である。伝承された講道具や過去の行事記録などの資料は、江戸時代に流行して市内に多数の庚申塔造立を促した、庚申講という民間信仰の形態を伝える重要な歴史・民俗資料である。
       平成二十三年 流山市教育委員会



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『広報ながれやま』に紹介されました。ちなみに使用されている写真は(当ブログの2枚目と同じ)古いものです。新しい情景は当ブログの3枚目以降のものです。現在はカーポートのような屋根が新設されていて,左手に新たな解説板が設置されています。
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  1. 2012/03/27(火) 07:47:51|
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(68)近藤勇陣屋跡 《TOP30-4》

「流山新100か所めぐり」第68番「近藤勇陣屋跡」《TOP30-4》



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近藤勇と土方歳三の離別の地として知られている。滞在時間は1日ほどだったが,歴史のうねりの一コマを作った所だ。目に見える物はないが,140年のタイムスリップを想像してみよう。

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解説板の左下が見えないが『慶応』とある。
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背景の土蔵は現在は秋元酒造会社の建物で,手前の塀と柵に囲まれた部分が〝陣屋跡〟だということです。

2011_0615_100620-DSC03376.jpg近藤勇陣屋跡
 文久三年春以来京師にあって勇名を馳せた新撰組は慶応四年正月鳥羽、伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同三月甲州路勝沼に出陣して官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙をはかった。
 当時の流山は水陸交通の要衝、醸造業の地として知られ、各種問屋・船宿・旅籠等軒をつらね本多氏下総領管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。ために江戸を脱出した幕兵のこの地を慕って屯集する者、また数を知らなかった。
 甲陽鎮撫隊は三月二十日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にしてすでに一大勢力となっていた模様である。
 一方、官軍においては、その東山道軍先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向かう途次、この風聞を耳にした。直ちに香川敬三指揮する一隊流山に来攻、策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い縛に就かした。時に慶応四年四月三日の夕刻である。
 一説に、近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという。
 老松古椎に往時を偲んでここに遺跡の石碑を建てる。
     昭和五十一年三月   流山市観光協会


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2011_0615_100716-DSC03379.jpg(解説板左側の年表は割愛して,中央の2枚の解説を転写します)
新選組の誕生から江戸帰還まで【ここでは〝新選組〟と表記しているが〝新撰組〟の表記もある。】
 文久3年2月、多摩出身の天然理心流宗家・近藤勇は、門人の土方歳三らと上洛し、3月に同志と「京都守護職松平肥後守御預浪士組」を結成。浅葱色の羽織を着て市中見廻(治安維持)を任務とした。8月に「新選組」を拝命、9月には筆頭局長の芹澤鴨らを粛清し、近藤局長・土方副長の体制となった。翌年6月の「池田屋事件」では長州の京都放火・天皇拉致計画を未然に防いで名声を馳せた。
 慶応3年6月、黒羽織・黒袴で活動した主要隊士は、幕府直参の武士の身分となったが、「大政奉還」や「王政復古の大号令」を経て、館賊の立場は逆転した。
 慶応4年1月の鳥羽伏見戦争で、旧幕府軍(会津・桑名・新選組など)は薩長軍に敗走して江戸へ戻った。近藤は甲陽鎮撫隊を組織して、3月1日に甲府入城を目指し出立したが、甲州柏尾坂で新政府軍の攻撃を受けて敗走した。

流山での新選組とその後
 3月中旬に永倉新八や原田佐之助らが脱退し、六十余名となった新選組は、五兵衛新田(足立区西綾瀬)の金子邸に屯集、歩兵などを取り込み下総鎮撫隊を組織して、4月1日夜に二百数十名が流山へ転陣した。
 「丹後の渡し」から流山に入った下総鎮撫隊は、醸造家の永岡三郎兵衛方を本陣とし、光明院などに分宿した。情報を得た新政府軍が3日に「羽口の渡し」から急襲し銃撃を交えたが、本陣は包囲された。大久保大和(近藤勇の改名)は切腹を決意したが、内藤隼人(土方歳三の改名)は近藤の改名が知られていないことを利用し、徳川家の鎮撫隊を主張し説破するよう勧めた。
 大久保は出頭して「矢河原(やっから)の渡し」から流山を去り、事情説明のため越谷宿(埼玉県越谷市)に赴いたが、新政府軍により板橋宿へ連行され、大久保が近藤勇であると露見し捕えられた。
 土方は江戸で勝海舟らに救出工作を試みるが、近藤は4月25日に板橋宿で処刑、梟首された。残された新選組本隊は流山を脱出し、会津を経て箱館戦争で降伏、土方も戦死した。



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解説板右端の地図を拡大しました。




















  1. 2012/03/26(月) 08:09:10|
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(67)閻魔堂

「流山新100か所めぐり」第67番「閻魔堂



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畏れ多くも“閻魔大王”です。お堂を立派にしてもよいと思うのですが・・・

  1. 2012/03/25(日) 07:09:32|
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(66)常与寺

「流山新100か所めぐり」第66番「常与寺



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2010_0708_124802-DSC01310.jpg左右の写真を見比べてください。門柱の位置が変わっていますね。左は2010年7月8日撮影,右は2011年1月23日撮影。写真は過去を伝える道具だということがわかります。
駐車場の塀が取り払われたようです。


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2011_1023_095352-DSC04380.jpg千葉師範学校発祥之地
  印旛官員共立学舎跡
 明治五年「1872年」八月学制発布の頃、流山は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を行政区域とする印旛県の県庁所在地であった。
 学制が発布された年の九月、時の印旛県令河瀬秀治は、いままでの教育機関――寺子屋などを、九月限り廃止することを命じ、同時に小学校の新設を宣言した。文部省に提出された実地施行書には、「学制ニ因リ教則ニ随ヒ官員協力仮ニ小学校九月二十三日開業候事、教授人ハ官員中ヨリ当分之ヲ勤メ、費用ハ官員熟議左ノ制ヲ設ケ当分之ヲ償フ。奏任官々給十分ノ一、判任官々給廿分ノ一 ------」とある。
 県令以下の官員が月給の一部を醵金して、明治五年九月に開設した学校、それが「流山村常与寺」の「印旛官員共立学舎」である。
 共立学舎は学制により新設される小学校の模範であり、小学教員になろうとする人びとに、教授の内容・方法を実際に習得させる場所であった。「伝習員」とよばれ、印旛県内各区から選出された人びとは、試験ののち十一月はじめに入学、六十日間教授法を学んで各地の小学教員となった。
 まさにここ常与寺に、学制に基づく教育はうぶ声をあげたのである。この共立学舎は、鴻ノ台学校と改称流山村光明院に移り、ついで印旛・木更津・新治三県の統合により千葉県が誕生、県庁が千葉町に移ると、千葉学校と改称し、千葉町正妙寺に移転した。更に明治七年千葉師範学校の発足へとつながった。また常与寺はその後も流山小学校として、地域教育の中心となり明治廿二年現在地に移るまで存続した。
 時、1982年、学制発布百十年に当たり、流山市の教育関係者有志は、ここに記念碑を建立し、学制の原点に立ち教育の振興を願うものである。
  昭和五十七年十一月   共立学舎記念碑設立実行委員会


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紙本著色日蓮上人像(常与寺)
流山市指定有形文化財第二十八号

 金箔地に、上段に「南無妙法蓮華経」のひげ題目、下段に日蓮上人像を描く。日蓮上人(一二二二~一二八二)は、日蓮宗をおこし、南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、仏の救いにあずかることができると説いた。
 箱書から、宝暦七年(一七五七)唯心院妙持信女のため須藤喜平治が寄進したことが知られるが、作風はそれよりも古いものを示し、貴重な江戸時代の作品である。
    流山市教育委員会






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  1. 2012/03/24(土) 07:27:24|
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(65)浅間神社

「流山新100か所めぐり」第65番「浅間神社」《TOP30-26



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流山旧道に見られる,道路より低い敷地・境内。〝神様を下に見る〟ことの失礼をお許しください。

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                                       “阿夫利大神”“金刀比羅大神”の碑。

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市指定有形民俗文化財の富士塚

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2011_1109_110321-DSC04710.jpg富士塚  流山市指定有形文化財第十五号
 美しい富士山を敬い畏れる人々の思いは強く、古くから信仰の対象となっていた。
 江戸時代になると、富士山を崇拝する人々が集まって「富士講」をつくり、白衣姿で鈴を振り、六根清浄を唱えて登山し、祈願をしたりした。
 富士塚は富士山をかたどって人工的に築いたもので、信仰の対象に、また本物の富士山を遠くから拝む場所にされている。
 この浅間神社の富士塚は、社殿の後ろに溶岩を用いて築かれた大規模なものである。
 頂上に明治十九年の「富士浅間大神」の碑をはじめ、中腹には多くの石造物が立てられて、一合目から二合目、三合目・・・と頂上に至る「登山道」がつくられている。                流山市教育委員会




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『根郷』と記された〝水神様〟か。                          “伏見稲荷”が祀られている。

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“不動明王像”,台座には『成田山月参供養塔』とある。

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  1. 2012/03/22(木) 07:13:44|
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(64)流山広小路

「流山新100ヵ所めぐり」第64番「流山広小路

広小路という語感から交差点を意識するが,この三叉路はもちろん,北・東・南に延びる街路が,流山の繁栄を築いた場所だ。平成24年になって“流山本町 江戸回廊”と銘打って観光に向けた活動が展開中だ。
当ブログでも今後目が離せない。「100か所めぐり」が一段落したら詳しく紹介します。




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                                           三叉路に立つ現代版道標。

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上の2枚は,北方向を見る。   下2枚は,南方向を見る。
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2012_0307_092841-DSC06655 パノラマ写真
パノラマにしてみました。中央の建物が「呉服新川屋」

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旧道の風景
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左の写真は,東方向をむいて大坂を望む。坂上の右手が市役所。

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2011_1023_095744-DSC04386.jpg呉服新川屋店舗
登録有形文化財(建造物)第一二 ―― 五八号
 この建物のある流山広小路沿いの地区は、江戸時代から江戸川沿いの加村河岸に米や東北・北関東の物資を運ぶ水運業や、江戸時代中期に開発されたみりん醸造業などで栄え、昭和四十年代まで多くの商家が軒を並べていた。
呉服新川屋は弘化三年(1846)創業で、この建物は、明治二三年(1890)に建てられたものである。土蔵造りの分厚い壁が特徴で、恵比須、大黒天が表された屋根の鬼瓦は見事である。建物に書かれた文字から熊五郎という松戸市の大工が建てたことが知られる。
 現在広小路界隈の歴史的建造物は少なくなってしまったが、呉服新川屋店舗は国土の歴史的景観に寄与しているものとして、平成一六年国の原簿に登録された。
 建物は建築後何回か修理されているが、平成一七年文化財として保存修理工事を行っている。
   流山市教育委員会            【北側鬼瓦 恵比須;南側鬼瓦 大黒天】



鬼瓦に‘恵比寿’‘大黒’が飾られているのは珍しい。ちょっと見にくいが・・・
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平成23年に登録された〝見世蔵〟
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2011_1019_102540-DSC04339.jpg寺田園見世蔵
寺田園旧店舗
国登録有形文化財十二 ― 〇一五四号
 寺田園が所在する江戸川沿いの流山本町大通りは、江戸時代から明治時代にかけて、米などの物資が集荷された江戸川の水運業や、みりん醸造業などで栄えた。
 寺田屋は流山村の草分けといわれる六軒百姓の一つで、明治三十年代の町並みには「寺田茶乾物屋」とあり、昭和三十八年に移転するまで店舗として利用されていた。
 旧店舗は大通りに西面して建ち、通りに唯一残る黒漆喰仕上げの土蔵造りで、本体は間口四間奥行二間、二階建て寄棟造、平入瓦葺きである。
 正面側に奥行七尺の前庇、背面に奥行一間半の後庇を設け、さらに一間の後設下屋が付く。
建築年代は「諸事支払簿」に「見世蔵間口四間奥行五間二尺 明治二十二年九月立前」と記録されている。
  平成二十三年 流山市教育委員会

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ましや解説板
呉服 ましや(増屋)店舗・土蔵
 呉服店「ましや(増屋)」は江戸末期の安政六年(一八五九年)の創業であり、その以前は酒造業を営み、文政一一年の記録が残っております。
 店舗部分は関東大震災(一九二三年)当時までは江戸時代以来商家としては一般的であった軒を大きく前に出した「出桁造」でありましたが、防災及び街路の拡幅のため、当時流行の洋風を取り入れた、いわゆる「看板建築」様式に改造されたものであります。
 切妻造りの「土蔵」部分は明治三年に建てられたもので、流山本町地区(旧・加岸、加台、根郷、宿など)において現存する最古の土蔵の一つであると云われております。
 なお蔵内上部梁には左記の墨書が残っています。
  上棟 明治三年 午 八月
  左官 丑五郎   大工 権次郎 留吉 亀次郎
  石工 藤吉    鳶  安五郎 勇吉



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このような旧家も見られる。じっと見ているとタイムスリップできる・・・が・・・不審者と間違われないように気をつけよう。












  1. 2012/03/21(水) 08:39:00|
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