写真でつづる流山の道 2012年04月

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

(91)香取神社 《木》

「流山新100か所めぐり」第91番「香取神社」《木》



powered by 地図Z


[34] (4) [34] (5)

[34] (6) 2012_0314_101350-DSC06823.jpg

2012_0314_101459-DSC06825.jpg 2012_0314_101555-DSC06827.jpg

2012_0314_101738-DSC06828.jpg 2012_0314_102026-DSC06830.jpg

DSC00512.jpg
江戸川土手からの眺め。春[右上]と夏[左]とでは様子が違う。右手の三角屋根は観音寺。











スポンサーサイト
  1. 2012/04/29(日) 07:16:24|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(90)観音寺

「流山新100か所めぐり」第90番「観音寺



powered by 地図Z


2011_0318_102151-DSC02363.jpg 2011_0318_102136-DSC02362.jpg

2011_0318_102528-DSC02369.jpg 2012_0314_100554-DSC06807.jpg

2011_0318_102217-DSC02364.jpg 2011_0318_102301-DSC02365.jpg

2011_0318_102353-DSC02367.jpg 2012_0314_100857-DSC06813.jpg

2011_0318_102324-DSC02366 (2)

2012_0314_100741-DSC06810.jpg 2012_0314_101000-DSC06816.jpg

2012_0314_100639-DSC06808.jpg 2012_0314_100659-DSC06809.jpg

2012_0314_100819-DSC06812.jpg 2012_0314_100920-DSC06814.jpg

2012_0314_101043-DSC06819.jpg
‘辧財天’の碑。












  1. 2012/04/26(木) 07:39:59|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(89)雷神社

「流山新100か所めぐり」第89番「雷神社



powered by 地図Z


2010_0629_112228-DSC01296.jpg 2010_0629_112258-DSC01297.jpg
                                       マンションに挟まれるようにたたずむ。

2010_0629_112214-DSC01295.jpg 2010_0629_112131-DSC01293.jpg

2010_0629_112117-DSC01292.jpg

2012_0120_144214-DSC05865.jpg雷神社由来【境内の拝殿横の石碑文;/は改行を表す】
備社の由来
この鰭ヶ崎の地には先人達が営々と守り育ててきたおびしゃ行事がある。おびしゃとは、地域に住む人々/
の共有の鎮守様である雷神社に供物を備え五穀豊穣、家内安全等を祈願する講として現在に伝承されて/
いる。組織的には氏子の家順に七戸が年番となって行事の準備をする。当番の最初の家をハナト(初戸)と呼び/
行事全般の総括者である。古くは備社田を耕作し、この備社田から得た収入をもって神社の維持管理や祭事/
の費用に充てられた。社に備えるといった語源からお備社といわれている。/
おびしゃ行事は毎年一月二十日に神社の拝殿で祭典が行なわれる。神殿には、米や酒などのほか鶴亀/
と松竹梅をあしらった供え物が用意される。祝詞奏上のあと、歩射、トウ渡しが行なわれる。歩射は、拝/
殿から鳥居の方向に赤鬼・青鬼の顔を描いた的を立て、神官・氏子総代・世話人・初戸の順に弓を射る行/
事である。トウ渡しは一年間の務めを終えた当番が、次の当番に一切を引継ぐ行為である。引継ぎの品物の中/
には唐金製の薬罐がある。薬罐には安政己六年(一八五九年)未正月吉日鰭ヶ崎村氏子中と刻され一対が伝え/
られており貴重な遺産といえる。トウ渡し後は社務所で直会(祝宴)が行なわれる。当番は七福神(恵比須・/
大黒天・弁財天・毘沙門天・寿老人・福禄寿・布袋)の扮装をし来当は上下を着用し宴席に正座し居並/
ぶ。宴席には囃子連中が招かれ、たねがしや大国主命、獅子などが舞い演じられる。夜も更ける頃社務所か/
ら七福神を先頭に山車を引いて備社当番一切の道具とともに初戸の家まで送り込み行事が行われる。/
お土産には、清酒・みかん・金一封を持参する。到着すると当番と来当は向かい合って、七福神の順に座り目/
録や衣装の引渡しをして終了となる。鰭ヶ崎のおびしゃ行事は、昭和五十二年十月二十二日付けで流山市無形民俗/
文化財に指定されている。この碑は幾多の歴史を生み日本の現代を築いた昭和の年号が終り新らたな平成の年/
号を迎えた輝やかしい年を記念し、併せて由緒あるおびしゃ行事の由来を改めて認識し次代の子孫に引継いで行く/
ため備社当番の家順を碑の裏面に刻して末永く保存・伝承することを目的におびしゃ発祥三百周年を記念し/
建立するものである。
     平成元年十月吉日  鰭ヶ崎雷神社氏子一同
【〝オビシャ〟は,御歩射・御備社・御奉射・御備射・御日射等の文字を当てる。また〝トウ〟は頭屋か当屋からか。】



2010_0629_112154-DSC01294.jpg鰭ヶ崎おびしゃ行事
       流山市指定無形民俗文化財第一号
 「おびしゃ」は、関東地方各地に伝わる正月の行事で、流山市でも地区や神社を単位に行われている。
 鰭ヶ崎では七軒が当番となり、一月の「おびしゃ」をはじめ、五月、九月にも「おこもり」を行うなど一年間の行事を運営する。当番の筆頭をハナト(初戸)という。
 むかしは備神田という共有の水田を当番が耕作し、費用をまかなっていた。
 「おびしゃ」は毎年一月二十日に行われる。七軒の当番が七福神(ハナトは大黒様)に、次年の当番が裃姿で神社に集まり、祭礼、引継ぎの儀礼である「トウ渡し」のあと、赤鬼と青鬼の的にむかって矢を放つ。
 その後の直会では、お囃子や神楽が奉納される。
 夜になると、神社から次年の当番の家まで万灯をかかげ、花でかざった車をひいて、「送り込み」が行われる。
                 流山市教育委員会



2012_0120_153134-DSC05868.jpg 2012_0120_153157-DSC05869.jpg

2012_0120_153223-DSC05872.jpg 2012_0120_153338-DSC05875.jpg

2012_0120_153507-DSC05880.jpg 2012_0120_153728-DSC05887.jpg


2012_0120_154119-DSC05892.jpg 2012_0120_154129-DSC05893.jpg

2012_0120_154200-DSC05894.jpg 2012_0120_154206-DSC05895.jpg

2012_0120_154238-DSC05896.jpg 2012_0120_154615-DSC05902.jpg
                                      〝七福神〟に会えました!!

当日配布された資料【数か所の表記を直しました】
おびしゃ行事の進行表(タイムスケジュール)
午後1:00:送り当番・受取り年番は、当日早めのお昼食をすませて、神社に集合する。
  1:30:衣装(七福神・裃)を纏った年番が、境内に揃い記念撮影
  3:00:神前行事-神前に迎い着席する。神官による祝詞奏上
  3:15:神前行事終了   年番引き継ぎの儀・年番の意義などを述べる。
  3:30:弓射の儀-神殿から鳥居に向かい、保存会長・年番長・来賓などが赤鬼・青鬼の面に矢を射る。
  4:00:直会(なおらい)-会長や来賓の挨拶 祝宴会
       お囃子連・赤城保存会による獅子舞い・たねがし等の余興を披露。
  6:00:送り込みの儀(出発)-神社周辺を回り神社に戻るコースです。
  6:30:七福神衣装一式引継ぎの儀  受け当番 初戸(はなと)(社務所に待機)
  7:00:送り当番・受け当番の乾杯儀式
  7:30:行事終了 解散

鰭ヶ崎おびしゃ行事の概要
【沿革】
 成立時期が江戸時代の享保年間(1716~36)という古い歴史をもつ行事で、雷神社の氏子が7軒ずつ家順に年番で一年間当番を務め、おびしゃ行事をはじめ1月・5月・9月・10月に実施する【おこもり】の賄いなどの行事を取り仕切り、次の7軒の当番〔受け戸〕が引き継いで行く行事である。
 以前は備社田(神社所有の水田)を耕作し秋に収穫した水稲や野菜といった供物を備え【五穀豊穣】・【家内安全】・【商売繁盛】を祈願する講であった。
 現在は備社田の耕作はしていないことから、運営資金は市の補助金や神社護持会からの助成金さらには、当番者の負担金などで賄っています。
 昭和52年12月22日付けで、流山市指定無形文化財に選択されています。
 また、平成6年2月22日付けで、千葉県の記録に残すべき文化財に選択されています。
【特色】
 昭和50年代からは、7軒の当番が【七福神の衣装を纏い】受け当が【裃と袴】で正座する姿は絵になっています。
 圧巻は神社拝殿から鳥居側に据えられた赤鬼と青鬼の面に向かって弓矢を射るところがこのクライマックスといえます。
【送り込み】
 社務所から受け当の家まで【酒樽】【味噌樽】などの各種道具を車に積込み、人間は徒歩で万灯や提灯を提げて行列する【送り込み】行事が行われる。
 (古くは、荷車や牛車を利用して、行列を見学する人には、みかん・お餅を配りながら歩いたとされていました。)
【見学者の皆様へのお願いです】
 神社拝殿から鳥居側に据えられた赤鬼・青鬼の面に向かって弓矢を射る行事がありますが、素人が作成した弓と矢を用いて実施いたしますので、身体に当たるとけがをする恐れが有ります。大変に危険ですから的の周辺には近寄らないで下さい。今年も、参観場所を特定しそれ以外は立入り禁止箇所といたします。皆様のご協力をお願い致します。
       鰭ヶ崎おびしゃ行事保存会 会長 恩田一雄

  1. 2012/04/24(火) 07:56:13|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

(88)坂川

「流山新100か所めぐり」第88番「坂川



powered by 地図Z


解説板が見当たりませんでした。

2010_0816_083531-DSC01690.jpg 2011_1029_091357-DSC04497.jpg
【マーク①】右方向が坂川の起点で,左方向から来る八木川と合流する。実際は〝北千葉導水路〟として地下で手賀沼とつながっているのだが,地表に顔を出すのがこの地点。周辺は〝野々下水辺公園〟として整備されている。この公園については後日紹介します。

2011_1029_091406-DSC04498.jpg 2011_1029_091415-DSC04499.jpg
左手に見える茶色い建物は‘特養老人ホーム あざみ苑’。右手に見えるのは‘県立特別支援学校流山高等学園’。

2012_0111_102738-DSC05673.jpg 2012_0326_100210-DSC07002.jpg

2012_0111_102758-DSC05674.jpg 2012_0111_102852-DSC05676.jpg

2011_1029_091600-DSC04501.jpg DSC00496.jpg

DSC00495.jpg 2012_0111_095131-DSC05652.jpg
【マーク②】1kmほど下ると南[右]から「富士川」が合流してくる。

2010_0429_090105-DSC00925.jpg 2010_0808_091046-DSC01607.jpg

2010_0815_084128-DSC01675.jpg 2011_0603_101335-DSC03099.jpg
                                          【マーク③】
アスファルトに慣れた足には土と草の感触が気持ちいい。東洋学園大学の脇を流れる周辺は遊歩道が整備され,近くの「宮園野鳥の池」とともにホッと一息できる場所になっている。


2011_0615_105834-DSC03404.jpg 2011_0615_105856-DSC03405.jpg

2011_0615_110220-DSC03406.jpg 2012_0204_091827-DSC06238.jpg
                                      【マーク④】
                                     坂川を渡る流鉄“青空号”。奥から流入しているのは‘新坂川’。


2012_0204_091956-DSC06240.jpg 2012_0204_093439-DSC06246.jpg
流鉄“なの花号”。手前は‘新坂川’。 
  1. 2012/04/23(月) 09:55:07|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(87)熊野神社

「流山新100か所めぐり」第87番「熊野神社」《思井》
(第43番では東初石の熊野神社を紹介しました。市内2つ目の熊野神社です。)




powered by 地図Z


2010_0720_085427-DSC01494.jpg 2012_0205_100900-DSC06331.jpg

2012_0205_100950-DSC06332.jpg 2012_0205_101022-DSC06333.jpg

2012_0205_101102-DSC06335.jpg 2012_0205_101031-DSC06334.jpg 

2012_0205_101208-DSC06337.jpg 2012_0205_101242-DSC06338.jpg

2012_0205_101329-DSC06340.jpg 2012_0205_101353-DSC06341.jpg

2012_0205_101144-DSC06336.jpg
‘精密水準点’があります。マスの中に標識があります。


















  1. 2012/04/22(日) 07:23:44|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(86)耳だれ地蔵

「流山新100か所めぐり」第86番「耳だれ地蔵

〝耳が長く垂れ下がっているお地蔵さん〟かと初めは思っていた。




powered by 地図Z


2010_0720_084716-DSC01487.jpg 2012_0205_101741-DSC06346.jpg

2012_0205_101812-DSC06347.jpg 2012_0205_101636-DSC06342.jpg

2012_0205_101647-DSC06343.jpg 2012_0205_101718-DSC06345.jpg

  1. 2012/04/21(土) 07:42:37|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(85)本覚寺

「流山新100か所めぐり」第85番「本覚寺



powered by 地図Z


DSC00779.jpg 2012_0205_102805-DSC06363.jpg

2012_0205_102721-DSC06362.jpg 2012_0205_102657-DSC06361.jpg

2012_0205_102050-DSC06348.jpg 2012_0205_102135-DSC06351.jpg

2012_0205_102510-DSC06360.jpg 2012_0205_102400-DSC06358.jpg

2012_0205_102339-DSC06357.jpg 2012_0205_102235-DSC06353.jpg

2012_0205_102241-DSC06354.jpg 2012_0205_102423-DSC06359.jpg

2012_0205_102106-DSC06349.jpg鬼子母神立像および十羅刹女立像(本覚寺)
                流山市指定有形文化財第九号

 鬼子母神は仏教説話に説かれる女神で、多くの子を産んだが他人の子を殺して食べるので、仏陀がこれをいましめ仏教に帰依するようになり、守護神となった。古くから出産育児の神としてまつられたが、特に日蓮宗では十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに法華経の行者を擁護するとして崇拝されている。
 像は高さ二十~三十センチメートルで、彩色(後補)が美しい。台座裏の墨書銘から、天明十二年(一四八〇)に修理されたことが判り、それ以前の造立であると考えられる。また小金本土寺のものであったが、本覚寺に移されたと思われる。
           流山市教育委員会





2012_0205_102125-DSC06350.jpg 2012_0205_102207-DSC06352.jpg

2012_0205_102320-DSC06355.jpg 2012_0205_102325-DSC06356.jpg
本覚寺本堂建立記念碑
 當山は久遠実成大恩教主本師釈迦牟尼如来を御本尊として勧請し奉り日蓮宗感應山本覚寺と稱す
 開山は松本坊日念上人にして正中元年四月の創建なり爾来各歴代上人嫡々相承してまいりましたが正中元年より今日に至る六七〇年栄枯盛衰の理を免れえず明治十七年の住職欠員中不慮の回禄に遭い全山灰盡に帰す
 前本堂は他寺より移築に依るものなりしも老朽化は衆目の認むる處なり茲に護山の志ふかき者結集し建設委員おのずから成立し新本堂建設千載一遇の時機と結論に達し平成三年一月檀信徒全員の賛同を得る
 是れ誠に法華経守護の善神委員の心を動かし檀信徒の心中に宿りたると思慮するより他なしと感謝益々なり
 茲に各位の丹精を後世に永く伝えんとするものなり
        合掌
      平成六年六月吉日
          建設委員会  三十三世 横山教持



  1. 2012/04/20(金) 07:34:34|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(84)三本松古墳

「流山新100か所めぐり」第84番「三本松古墳

地図では平面に見えますが,南から東にわたってかなりの崖になっています。道を間違えないように,詳しい地図を持参してください。



powered by 地図Z


DSC00774.jpg 2012_0205_095158-DSC06312.jpg

DSC00777.jpg DSC00776.jpg

DSC00775.jpg市指定有形文化財第29号
鰭ヶ崎三本松古墳
 当古墳は、全長25M、前方部の幅8M、後円部径17M、最大高2.5Mの市内でも、例の少ない前方後円墳です。
 古墳の墳丘からは、円筒埴輪や人物埴輪が出土しており、その研究から古墳の造られた時期は、6世紀頃と考えられています。また、墳丘の形などの研究から、当古墳に埋葬された人は、市川市の法皇塚古墳、弘法寺古墳を含む国府台古墳群を築いた有力な首長層と密接な関係を持った在地の族長と考えられています。
 墳頂には、文政11年銘の「古塚碑」が建立されています。その内容を要約すると、「天明の飢きんの時人々が苦しみ、古墳に埋納された財宝を掘り出し飢えをしのごうとした。それを知った当時の庄屋は、人々に古代の人の墓をあばく事をたしなめ、古墳を守りとおした。」と記されている。江戸時代より周囲の人々には、当古墳が重要な文化遺産であると認識されていたようです。
         流山市教育委員会


2010_0720_083507-DSC01483.jpg 2012_0205_095623-DSC06328.jpg
左端の石碑に並んで,右に「三本松稲荷」が祀られている。
2012_0205_095545-DSC06325.jpg 2010_0720_083537-DSC01484.jpg

2010_0720_083641-DSC01486.jpg 2012_0205_095425-DSC06317.jpg
石碑文(流山市指定有形文化財(建造物))
【写真でわかるように石碑には欠損部が多く,判読可能な部分だけを転写しました。間違いがあるでしょうがご容赦ください。23行の改行をそのままに示しました。□=欠損部
下總國鰭﨑邨古冢碑(しもうさのくに ひれがさきむら こちょうひ)
下總國鰭﨑村古塚碑
    成島譲撰  市河三灾書  大隈守戸川安惠題額
下總國葛飾郡鰭﨑村有一邱邱上有塚相傳古貴佳城之地老松一□
槙以□□□矗摩霄土人因以名焉又神事之頗有靈應云天明甲辰□
左大饑餓□相籍或意塚必有寶器因謀發之□□正渡邉充房其子寅
倶告諭曰寶器有無來可必焉凢竊人□謂□□□令其中有物亦人貯
也道於窮□□□乎盗殆非人類爾輩寧死豈可爲乎乃傾家貮以賙窮
□□得□□□累数十人迨後渡邉□□□□饒邱地亦竟爲其有焉至
共孫睦□爲里正古塚霊應益彰其辧□□上者絡繹接踵第塚後有一
窟人或□見□□□就以爲神而不知□□□爲靈者多矣睦爲欲樹碑
以紀□□□之□余余□□□□邱何□□□獨此邱以靈威顯或其有
□□□□□□□敬而奉□□夫發廩□□□政一端爾祖以一里匹□
□□□□□□人其禦靈塚於發掘仁□□挽□風乎淪壊義也既仁且
義蜼先王之治何之尚焉□白狐靈獸□□□□邱神而罰狐宜其易易
狐西得宅神式不譴歟君子愛人推及□鳥彼綏綏者其獨何責安知非
□之於神或供其使令□乎爾其勿問睦曰諸□沈毅好學當遊千家翁
□門頗有氣槩益非隴畞間人也銘日
茫□總野有隆其邱茲誰□宅瘞骨一柡□□□邪或王或侯露泣荊棘
風咽□楸夜臺冥漠花落水□獨遣□爽靈威□鬽會歳艱凶民尋殆淪
誰□救之渡邊有人昔截鬼腕余受神魂制□以義賑窮以仁誠感強暴
澤盡郷鄰天錫之社神饗其恩百日茲□萬箱□□陰徳之報積善之慶
幾聞其語余□皿□□□勿替永守寧康□□□□克具酒槳施其餘惠
鎮茲四彊□□□□□□□□
文政十一年歳□戌子夏五月     渡邉睦 建  窪世祥鐫

(注)成島 = 成島築山(江戸時代の儒学者;この碑文を作成)
  市河 = 市河米庵(いちかわべいあん)幕末の三筆
  戸川安恵(とがわあんけい)= 幕府の役人;篆額の書者
  渡邉允房 = 睦の祖父
  寅 = 睦の父
  文政11年 = 1828年
  渡邉睦 = 鰭ヶ崎村名主;庄左衛門;石碑建立


【内容は『睦の祖父である渡邉允房と父である寅が天明の飢饉の時,古墳を掘って財宝を掘り出して食べ物にかえようとした村人がいたが,これをやめさせ私財を投じて農民を飢えから救った』というもの。(欠損部が多く判読困難);この古墳は6世紀後半の築造で,全長25m,高さ2m。】

※注と内容及び下記の説明文は「流山市文化財マップ 流山市教育委員会生涯学習課文化財保護係作成・流山市教育委員会生涯学習部生涯学習課発行」(¥300)に準拠しました。

「鰭ヶ崎三本松古墳」は出土する埴輪から,6世紀後半の築造と考えられ,前方部から後円部までの全長25メートル高さ2メートルの本市では最大の前方後円墳です。東葛飾地区で数少ない前方後円墳で,そこに葬られた人は地域の長クラスの人ではないかと見られています。古墳は裾のぎりぎりまで土が取られ急な崖となっていることから,区画整理事業のなかでは古墳を現状で残すことが困難となっています。江戸時代の人々が飢饉の時でさえ古墳を護ったことを記すこの碑は,豊かさや快適な生活を求めて多くの文化遺産を失っている現代の私たちに何を訴えているのでしょうか。



2012_0205_100156-DSC06329.jpg DSC00771.jpg
古墳の北西方向から見た様子。手前の道路は人為的に開削したようで,全体が台地の端になっている。
素人には〝高さ2.5mの前方後円墳〟だとは見えないのだが・・・写真にも撮りようがないのです。
DSC00772.jpg DSC00773.jpg
右上の写真の左下隅に見える階段がこれ。           この階段を上った左手に「道祖神」がある。
                     〝上・下・左・右〟めまぐるしくてすみません。

  1. 2012/04/19(木) 09:11:26|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

(83)千仏堂

「流山新100か所めぐり」第83番「千仏堂



powered by 地図Z

地図上で,マーク①が「東福寺」,マーク②が「旧千仏堂」。

ここは現在では「東福寺」境内に移され,お堂も新築されています。元あった場所にはガランとした旧堂があるのみです。東福寺北側から見た旧千仏堂の眺めがなかなか良いのですが,これからは「100か所めぐり」も修正されることでしょう。
(観光マップは修正されています)

2012_0205_093815-DSC06307.jpg 2012_0205_094135-DSC06309.jpg
中央の赤い屋根が「旧千仏堂」です。
2012_0205_094205-DSC06310.jpg 2012_0205_094338-DSC06311.jpg
六地蔵とネコが守っています。

以下は「東福寺」境内に新しく移された「千仏堂」です。安置されている〝千仏〟はまだ拝見していません。
2012_0205_092649-DSC06290.jpg 2012_0205_092024-DSC06277.jpg
左側が「千仏堂」,右は「東福寺」本堂。
2012_0204_100344-DSC06253.jpg 2012_0205_091824-DSC06274.jpg

2012_0205_091841-DSC06275.jpg 2012_0205_091910-DSC06276.jpg 


「東福寺」北側には「辰巳稲荷大明神」がある。‘平成21年建立’とある。
2012_0205_093148-DSC06297.jpg 2012_0205_093203-DSC06298.jpg

2012_0205_093025-DSC06294.jpg 2012_0205_093101-DSC06296.jpg 


  1. 2012/04/16(月) 07:41:37|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(82)東福寺

「流山新100か所めぐり」第82番「東福寺



powered by 地図Z


次回予定の「千仏堂」は,以前は300mほど離れた所にありましたが,現在では東福寺境内に移されています。今日の「東福寺」の写真の中に写っていますが,「100か所めぐり」としてはまだ分かれて登録されているので,次回「第83番:千仏堂」(地図のマーク②)として再び取り上げます。

DSC00708.jpg DSC00706.jpg

2012_0205_091007-DSC06259.jpg 2012_0205_091053-DSC06261.jpg
境内入り口には石仏や96基(100基の内4基破損)の庚申塔がある。52段の急な石段を上ると・・・
DSC00707.jpg 2012_0315_102644-DSC06863.jpg

2012_0205_093603-DSC06304.jpg
石段の上には仁王門,そして中には阿形と吽形の金剛力士像がある。











2012_0205_091404-DSC06265.jpg 2012_0205_091422-DSC06266.jpg

2012_0315_103328-DSC06870 パノラマ写真
境内ほぼ全景。左端に「千仏堂」,右端に中門が見える。

2012_0205_092422-DSC06286.jpg 2012_0205_092513-DSC06287.jpg

2012_0205_092649-DSC06290.jpg
右手が本堂,左手が千仏堂。移転前の姿は次回「第83番:千仏堂」で紹介します。













2012_0205_092211-DSC06281.jpg密厳堂(みっこんどう)(興教大師堂(こうぎょうだいしどう))
このお堂には真言宗中興の祖、興教大師覚鑁(かくばん)上人をお祀りしております。上人は真言宗を開かれた宗祖弘法大師がご入定されてから二百六十年後、平安時代の後期に現在の佐賀県鹿島市において誕生されました。二十歳のとき高野山に登られ、厳しい修行を重ねて深い知恵を開発され、三十八歳のとき鳥羽上皇の庇護を受けて仏教研究の道場である大伝法院とお住まいである密厳堂を建てられ、真言宗を復興されたのです。この八角堂はその密厳堂をかたどって平成四年の八百五十年ご遠忌を記念して岐阜県関市の亀山建設株式会社の施工により建立したものです。







2012_0205_092225-DSC06282.jpg 2012_0205_092245-DSC06283.jpg

2012_0205_092300-DSC06284.jpg 2012_0205_092331-DSC06285.jpg

2012_0205_093706-DSC06306.jpg

2012_0205_093357-DSC06301.jpg
境内右手の中門の梁には有名な左甚五郎作と謂われる〝目つぶしの鴨〟の彫刻が掲げられている。門の西側に〝口を開いて後ろを振り向いている鴨〟(写真右),東側に〝口を閉じてまっすぐ左を向いている鴨〟(写真左)が見える。仁王像の阿形と吽形のようだ。〝眼〟が描かれていないのがわかる。
左甚五郎が彫った鴨の彫刻が夜中に動き出し,田を荒らしたことがわかって,その鴨(の彫刻)の目に釘を打って眼をつぶしたら,その後は田を荒らされなくなった』という民話がある。








2012_0205_092722-DSC06291.jpg 2012_0205_093422-DSC06302.jpg

DSC00709.jpg
守龍山証明院東福寺の指定文化財
【流山市教育委員会設置】











東福寺二十一仏板碑       流山市指定有形文化財第二号
板碑は鎌倉時代から室町時代の石塔婆である。二十一仏板碑は、十六世紀の関東のみで造られ、その数も数十基しか確認されていない。板碑は当初武士が建てるものであったが、二十一仏板碑は山王信仰や庚申信仰などの民間信仰と結びつき、信者の仲間が造立したと考えられる。

「俵藤太百足退治の図」絵馬   流山市指定有形民俗文化財第六号
俵藤太(藤原秀郷)が琵琶湖の主の大蛇を迫害する百足を退治した伝説から、大蛇が勢田の唐橋で女性の姿となって、藤太に百足退治を頼んでいるところを美しい色彩で描いている。文久三年(1863)渡辺庄左衛門らが奉納している。

金剛力士立像      流山市指定有形文化財第十一号
像高二メートル七〇センチ、市内では最も大きい像である。山門の中に立って寺院を守り、仁王像ともいわれる。向かって右が目をむき口を開いた阿形像で、左が口を閉じた吽形像である。裳裾(もすそ)や天衣(てんね)をひるがえし、形相は通常の金剛力士像で、伝統的な表現に従ったものである。

阿彌陀如来立像付千体阿彌陀如来立像  流山市指定有形文化財第十三号
像高約九〇センチの中尊阿彌陀如来立像と千体の小ぶりの阿彌陀如来立像で「千仏」と呼ばれている。中尊は来迎印を結び、口を軽く開けるいわゆる「歯吹きの彌陀」で、その左右に十段ずつ小ぶりの阿彌陀如来が安置される。江戸時代中葉(十八世紀の終わり頃)に造られたと考えられ、当時の信仰を知る貴重な資料である。道路を隔てた北側の奥の院「千仏堂」に安置されていたが、平成十九年修理後本堂近くに移座された。

紙本淡彩大日如来像      流山市指定有形文化財第二十四号
智拳印を結ぶ金剛界大日如来である。上方に真言宗の高僧飲光(おんこう)の賛、向かって右下に頭陀嶺山の落款がある。飲光の没年から文化元年(1804)以前の作品であることがわかる。

絹本著色道興大師像       流山市指定有形文化財第二十七号
道興(どうこう)大師は空海十大弟子のひとりで、空海の信頼が最も厚く、教王護国寺(東寺)の第二世となった。大師の略歴・業績を記した賛が大師像の上方に書かれ、この賛から元和五年(1619)の作と知られる。



2012_0204_100050-DSC06250.jpg 2012_0205_092812-DSC06293.jpg
当山の沿革(写真左)
 当山は守竜山証明院東福寺と号し天暦(てんりゃく)五年秀岳記(しゅうがくき)の縁起によれば、当山は弘仁(こうにん)五年弘法大師の開山せられたる霊地にして、東方の福地・神竜の守護する所なり。即ち、大師ご留錫(しゃく)の砌(みぎり)、五色池に住める竜王、老翁の姿となって、大師に仏像を刻み伽藍を営むことを請う。時に山の渺渺(びょうびょう)たる滄海(そうかい)に忽然として海竜現われ大師に竜宮の霊仏を捧ぐ、大師香を焼き礼をなして、この像に刀(とう)を加え妙相円(みょうそうまど)かなる薬師如来となし、当山の本尊とす、その際海竜鬐(せびれ)の先少しばかりをのこせり、これより当地を鰭ヶ崎と称す、天慶(てんぎょう)三年下野大守(しもつけだいしゅ)藤原秀郷、平将門追討に当りて当山本尊の加護を請(こ)い、効験あらたかなり、ために朱雀天皇勅(みことのり)して金堂を修覆せしめ、荘田(しょうでん)五百石を賜うと、その後寺運愈々(いよいよ)栄え、江戸時代には大本寺として御朱印地領参拾石を有し、末寺百参拾弐ヶ寺を統理し、移転寺格を許さる、山容今にその面影をとどむ
     当山現住  恵水謹識


境内地返還記 (写真右)
 当山境内地は、本来四六六六坪ありしが、昭和二十六年、その中三、五六二坪余が無償讓与せらる。然れどもその際目的外使用のため讓与の対象から外されし千百余坪については、耕作者の無条件耕作権放棄の快諾をを得、責任役員会・総代会の決議を経て、昭和四一年関東財務局千葉財務部に売払申請をなし、柦徒総代の尽力、柦信徒、関係各位の協力を得て、昭和四五年七月二九日漸くにして売買契約が成立し、二九〇四平方米余を金壱千参百弐拾万弐千五百円を以て買戻すことを得たり。その代金の借入については総代各位の特段の配慮を得。今茲に借入金の弁済完了せるを以て、些(いささ)かその功に報いんためその芳名を刻し、この碑を建立するものなり。
     昭和五一丙辰閏歳一月吉日
     当山第三五世 恵水謹誌
             (※以下に6名の名が刻まれている。)


  1. 2012/04/15(日) 08:35:23|
  2. ブログ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。