写真でつづる流山の道 2013年06月

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

流山発見;日光東往還(14)

「日光東往還」の昔を感じられる場所を探して歩きます。東武野田線初石駅付近に松の木があります。200年前そのままということはないでしょうが,〝こんな感じだったのかな〟とわかります。



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西初石4丁目にある「西初石ふれあいの森」です。マーク① 家々に挟まれた道を歩いてきてここに来ると,つい森の中に入ってみたくなります。広くはないのですが,落ち葉を踏む足元が優しいです。

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ひときわ高い松の木があります。街道に沿ってこのような松が並んでいたことでしょう。

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写真右:隣の「初石公民館」前にある松もがんばっています。

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200mほど進むと,初石駅です。マーク② 街道は前方に延びています。右手に入ると(写真右)突き当たりが初石駅です。
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「街道」の北方向を見たところ(写真左)と,南方向を見たところ(写真右)。赤の店と黄色の店の間を入ると初石駅。

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  1. 2013/06/30(日) 07:47:19|
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流山発見;日光東往還(13)

「日光東往還」を北へ進みます。西初石5丁目から4丁目を歩きます。



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西初石5丁目の町並み。
200年前は,左右に牧が広がり,放牧されている馬がちらほら,といった情景があったのでしょうね...


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旧流山街道[古道流山道]との交差点に出ました。角の黄色いお店と手前のガソリンスタンドが目印です。
前方へ伸びているのが「日光東往還」,左右に交わるのが「流山道」です。右の写真では,右奥方向へ流山道が続きます。
2011年10月22・23日と11月27日の当ブログで紹介した「古道;流山道」を見てください。
現在の松戸と野田を南北に結ぶ流山街道とは異なり,東京都足立区保木間から丹後の渡しで流山に入り,三輪野山から守谷街道に合流して,布施弁天や成田山へつながっていたようです。この二つの街道が交わる地点の200年前を想像します。


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「流山道」の西方向を見たところ。(写真左) 東方向を見たところ。(写真右)

  1. 2013/06/27(木) 08:48:58|
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流山発見;日光東往還(12)

「日光東往還」が途切れてしまった辺りを探ります。
つくばエクスプレス線(通称TX(ティーエックス))ができ,おおたかの森ショッピングセンターができ,新しい道路ができ・・・『都心から一番近い森の街』の中心となる地域です。いま様々な造成工事が行われていて,油断していると街の風景が変わっています。

<注意>赤い線のとおりには歩けません!(笑) 東武野田線の線路際に出て進んでください。


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2012_0330_100642-DSC07178 パノラマ写真流山おおたかの森駅南口。一年前の画像ですみません。殺風景ですがここではいろいろな催し物が開かれます。

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TXの下をくぐるこのあたりが旧道・・・と言われてもピンときません。
右の写真は,西口ロータリー。ここを右上に突っ切って街道は進みます。右手は東武野田線。


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振り返るとおおたかの森駅西口。造成工事中で車の通行はできません。

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「流山おおたかの森駅西口」を抜け,再び日光東往還に出ます。造成中の土地が目立ちます。

  1. 2013/06/25(火) 08:24:03|
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流山発見;日光東往還(11)

「日光東往還」の4.1km地点の「西初石クランク」を歩きます。「きらら公園」の一里塚を北東へ進むと,再び北西へ直角に曲がります。すると‘通りぬけできません’の看板が・・・そうです,おおたかの森ショッピングセンターが立ちはだかっています。ここで旧道はいったん中断されます。おおたかの森駅西口に出るまで,大回りすることになります。



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左へ曲がります。・・・先を見るとマンションが見え,直進できなさそうです。

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反対方向からクランクを見ると,こんな風景です。左奥が「きらら公園」の一里塚。
日光東往還は右に入っていきます。


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“通りぬけできません”の看板。昔はまっすぐ行けたんだが...と思う人は,2004年頃おおたかの森SCが工事を始めた頃か,ないしはそれ以前(2000年頃か?)に新しい道路工事で旧道が切られた頃を知っている人だろう。たかだか10数年前のことだ。その頃映像に残しておけばよかった・・・








  1. 2013/06/24(月) 08:15:31|
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流山発見;日光東往還(10)

「日光東往還」を進んで,一里塚に来ました。水戸街道から分かれて4.1km地点です。
「きらら公園」と名付けられています。「初石36号公園」という名とどっちがいいですか?




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右手が東,水戸街道方向。正面へクランク状に曲がると「きらら公園」が見えます。 マーク①

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「きらら公園」です。きれいに整備され,日光東往還と一里塚のことが記されています。 マーク②

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一里塚です。土を盛ってありますが,往時のものではないでしょう。このあたりにあった野馬土手もなくなっています。

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日光東往還(旧日光街道)
 「日光東往還」は、江戸時代に五街道のひとつ
日光街道(表街道)の脇街道です。
 江戸幕府初代将軍徳川家康の命日に日光東照宮で
催される大祭に歴代将軍が参拝するとき、表街道と
ともに利用され地元では古くから「日光街道」と
よびならわしています。
 公園周辺のクランク状の道(通称・西初石クラン
ク)は、拝礼のために日光へ向かう武士一行が敵に
襲撃されるのを恐れ、道中の安全のために設けた
ともいわれています。
 また、街道は幕府直轄の小金牧(土手に囲まれた
軍馬育牧場)のひとつ上野牧(かみのまき)の中を通っており、
牧の出入り口には土手に木戸が作られ通行のたびに
開閉していました。
 公園周辺にも木戸があったとの伝承があり、クラ
ンクは木戸を通過するために設けられた可能性も
あります。



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  1. 2013/06/21(金) 08:47:47|
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流山発見;日光東往還(9)

「日光東往還」を2kmほど進みました。道の表情を見てみます。



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コンビニの敷地の角にお稲荷様がいました。個人の屋敷神のようですが,なかなか立派です。マーク①

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東武野田線の線路に最も近づく地点。
ここは交通量が多く,渋滞する所です。
マーク②











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豊四季駅前交差点。右奥が豊四季駅。日光東往還は左奥へと延びていきます。マーク③

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マーク④左側が流山市,右側は柏市。マーク⑤右の写真は柏市を横切るあたりです。歩道がなくなり,ドブ板の上を歩きます。


  1. 2013/06/19(水) 07:49:41|
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流山発見;日光東往還(8)

「一本松稲荷神社」境内にある石碑を読みます。これも「新富稲荷」境内にある「豊四季開拓百年記念碑」と同じように、かなり力を入れて書いた文章です。気概というか気迫が迫ってきます。



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『一本松稲荷神社 鎮座記念碑』の裏に,経緯が書かれています。読みやすく句読点と振り仮名をつけました。
碑文の改行をそのままにしました。

茲 當稲荷神社ハ、明治三十七年二月初午ノ當日、豊四季(とよしき)三号住民ニ
十六名相謀リ、敷地字(あざ)一本松二百六十九番ノニ、山林五畝歩ヲ、八木村(やぎむら)市
野谷(いちのや)鈴木祐次郎氏ヨリ買受ケ、仝年五月十二日一社ヲ建立シ、農耕ノ主
神稲荷大神ヲ勧請シ、以テ鎮守トス。仝時ニ鈴木氏ハ、敷地内ノ字名ヲ生
セシ、名高キ老松立木一本ヲ竒附セラレテヨリ、一本松稲荷神社ト称ス。
次テ仝年仝字二百六十八番ノニ、山林二畝歩、八木村(やぎむら)前ヶ崎(まえがさき)竹内愛之助
氏カ献納セラル。其後神徳顕彰ノタメ、大正十五年十月、仝字二百六十九
番ノ内、四十三坪六合ニ、八木村(やぎむら)古間木(ふるまぎ)芳野為三氏ヨリ献納セラレタリ。
是ニ於テ、神社敷地二百五十三坪六合トナレリ。依テ三号区民合議シテ、
鎮座記念碑ヲ建テ、以テ後孫ニ傳フト云爾。  敷地二筆合計二百十坪
代表人豊田定吉外七名 同一筆四十三坪六合代表人杉原伴蔵外三名

明治三十七年五月十二日稲荷神社建設当時氏子
【セハ人(世話人)として、65名の名前が下の段に刻まれている】
昭和二年二月建立
流山市石工 小早川茂八刻
※‘石工 小早川茂八’は「阪川治水碑」を刻んだ‘小早川如春’の子孫か?


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『御嶽神社碑』もある。

抑々(そもそも)當御嶽神社ハ、明治三十四年ノ建立ニシ
テ、三号坪内道灌坂ニ鎮座セラル。講員三十有
余名ノ守護神タリ。今回御嶽講社員ヨリ一本
松稲荷神社境内ニ、合社ノ懇請アリ。依而當氏
子之ヲ諾シ、昭和八年四月十五日移轉鎮座セ
リ。茲ニ氏子一同相謀リテ記念碑ヲ建立シ、後
世ニ傳ヘントス
一本松稲荷神社
昭和八年四月 三号氏子一同







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『不動明王碑』と『御嶽神社碑』

  1. 2013/06/18(火) 08:12:23|
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流山発見;日光東往還(7)

現代の「日光東往還」はこんな風景です。そしてまた神社があります。「一本松稲荷」です。
小字名にも「一本松」があります。




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この理容店の看板は目立ちます。夜はさぞ目立つでしょう。

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普通の住宅に見かけるような門をのぞくと,「一本松稲荷」でした。

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「御嶽山」も祀っています。また「豊四季町公民館」もあります。地域をまとめる力があるのですね。
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次回では再び〝碑〟を紹介します。

  1. 2013/06/16(日) 08:31:35|
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流山発見;日光東往還(6)

「日光東往還」を進みます。国道6号線の「旧日光街道入り口」から1kmちょっと行くと,「稲荷神社前」という交差点に出ます。その角にあるのが「稲荷神社」



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屋根の上にもキツネがいる造りは珍しいのではないでしょうか。

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境内にある「豊四季開拓百年記念碑」を見てみましょう。この前に立って読もうとしても,根気が続きません。写真に撮ってゆっくり読みました。するとこの文を書いた人の気概がひしひしと伝わってきて,感動を覚えました。開拓がいかに大変だったかがわかります。また初富から十余三までの地名の由来もわかってためになります。〝東京窮民〟についての本も見かけたように思います。〝先人の労苦を想う〟良い歴史資料でもあります。
当ブログをご覧の皆様,是非全文を読んでください。現地で読もうとすると,首を痛めます。
文中の〇数字は,下の注に対応しています。






豊四季開拓百年記念碑
明治維新の社会変革は 武士と此れに関連する各方面の失業者を①簇生し 兵乱と凶作等に拍車をかけられ 社会不安は限りなく拡大して行った 明治新政府が第一に考慮しなけれ/ばならぬ問題は 民生の安定であった 政府は失業救済 窮民対策として「不毛地開墾等の業を以て広く窮民に生産を与へ候より他無之 先近国より手始として 下総國小金 佐/倉等の原野開墾」を採りあげ 小金 佐倉牧を廃止し 東京窮民を救い 遊休労働力の生産労働力への転換と 耕地拡張生産増加を求め 明治二年民部省に開墾局を設け 三井八/郎右衛門等三十六名に基本金二十万両を貸②出し「③御東輦冥加役」の名目で 両牧の開墾会社を設立させた 政府は此の開墾地積を一万町歩と推定 一万戸の入植を計画し 各藩に/募集を依頼し 築地旧備前邸等で授産訓練を行い「東京窮民七千九百六十四人の内農業適宜の者六千四百六十一人」を 二年十月より三年八月の間に逐次入植させた/
入植者は「三ヶ年間衣食住は勿論万事世話致し 四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成 開墾入費を十ヶ年の内に会社に返済致候得ば会社一般独立農夫」となり 共の/後自力新開は地主となれる規定で 割当面積は一人平作地五反家作地五畝 三町歩まで自力開墾割渡しを受けられる筈であった 野付村よりの通い作民は自費開墾であった 会社/は一等富民 二等富民 ④上中下力民 一等富民小作人からなり 開墾地は会社への下付で 所有権は社員たる一等富民にあるとされていたのは 入植者の思わざる処であった/入植者即ち力民以下は掘立長屋で 米飯一人一日雑穀四合五勺を給され 其の他入費一切は計上され 二ヶ年にして一人当四十二両の負債が生じた 会社の管理督勵過酷言語に絶/し 労働過重心身共に疲弊困憊し 脱落逃亡が続出した 会社は経営よろしきを得ず前途暗澹 四年七月政府に七万両の資金借入を願って不許可 五年四月基金返納免除の嘆願等/の⑤弥縫策を弄しながらも 遂に五年五月事業未だ端緒のまま解散するに至った 六年開墾事務は県移管となり 社員は直ちに申請して地券の交付を受けた 地券面六千八百七十二/町歩と言え 実面積は数倍で 後に豊四季で一社員の地券十五町歩が 岩倉具視買受時には五十町余あった 力民 小作人は開墾地所有権の歸屬 債務処理 小作料問題等で会社/と紛争を生じ 同年県は残地三千七百十二町歩を 開墾者六千四百九十七人に対し 一戸宅地五畝耕作地五反の地券を下付したが 七年開墾者は之を不服とし連盟を結び 県 農/商務省に再参歎願したが効無く「開墾地所有権獲得の訴訟」を千葉地方裁判所に提出し 一敗地にまみれるや 東京上等裁判所更に大審院と上告を續け 二十三年帝国議会開設を/俟(ま)って 国会請願まで行うに至り「全国著名の富商を相手取り 権力不適の訴訟しばしば敗れて撓屈せず」と全国の視聴を集めた千葉県政の大問題に発展した 此の二十年に及ぶ/抗争の為に「住家は雨露を凌ぐまでにて ⑥眷族襤褸を纏い」畠は「枯痩の色を呈し牧穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず その他悉く四方に離散し⑦」 一戸の人煙を/見ざる所あり」と 千葉県令を歎息させるに至ったが 此の時既に分与地は皆無となっていた 翻って 入植後一年にして落伍逃散続出し 勤勉実直な者のみが茨の道を切り拓い/て行った 東京窮民入植二千三百二十五戸の中残留一千五十戸三千六百九十二人 野付村移民と通い作人四百八十四戸一千四百三十人 此れ等の人人の血と汗で一歩ずつ開拓が進/み 二年十月最初の着手初富から順次に 二和 三咲 豊四季 五香六実 七栄 八街 九美上 十倉 十余一 十余二 十余三の村名が立てられた 然し十三年には又東京窮民/八百四十五戸脱落し 十六年授産処分を受けた者 新田定着農民二千三百七十四戸 内野付村移民一千百八十戸 通い作人一千七十四戸に対し 東京窮民は僅か百二十戸に過ぎな/かった 此の時豊四季は地積六百十八町歩 東京窮民八十戸百六十三人 野付村移民及び通い作人百二十二戸四百三十七人 總て此れ六百人であった/
懐(おも)うに 開拓民が ⑧赤手空拳荒蕪の原野に挑み ⑨陋屋は風雪を凌ぎ難く 弊衣は寒暑に耐え難く ⑩箪食豆羹 飢餓線上を彷徨するの時 四面楚歌の中に外部圧力と闘いつつ ⑪孜孜/として 麦陸稲甘藷野菜の栽培に暁暗星を戴く忍苦を重ね 蓑木釘の副業に寒夜深更に精魂を傾け 隣保互助漸くにして盛運の基盤を築いた 三年十二月我が先人未来をかけて村/名とした豊四季 其れは寔(まこと)に美しい平和と幸福を謳っているが しかく簡単に地上の楽園は到来しなかった ⑫筑波颪颯颯たる曠野に痩躯を曝し 草蒸す叢林に吾か非力に自ら鞭打/ち 伸び行く郷土の將来 子孫の行く末をかけて 四季豊かに稔れと念じつつ 一鍬一鍬と開拓の努力は 連綿百年の星霜を経て 現代の繁栄を招来した 茲に百一年の第一歩を/踏み出すに当り 静かに先人の労苦を偲び その教訓を学び 今日への感謝と共に 展開する明日への資とする為に 此の碑を建て 以て 永く先人の志を伝える/
昭和四十八年四月吉日                山野辺南薫 撰竝書
〔1902字;引用符は除く〕
【注】
‘/’は碑面での改行を示す。
① 簇 = 現代表記では〝族〟に書きかえることがある。ゾクセイと読み、〝群がり生える〟意。
② 出 = 山を二つ重ねた字形であることから、下の山の字を〝々〟と置き換えることから、山の下に々を書いたものだろう。後出の字形すべて同じ。
③ 「御東輦冥加役」の読みと意味は未調査。
④ 上中下力民 の意味は未調査。
⑤ 弥縫(びほう)= 彌縫;欠点や失敗を取り繕うこと、また一時的間に合わせ。
⑥ 眷族襤褸を纏い(けんぞくらんるをまとい)= 親族一同ボロ衣を着て。
⑦ このカギカッコは原文[碑文]通りだが,誤りだろう。
⑧ 赤手空拳(せきしゅくうけん)= 手に何も持っていない事;
  荒蕪(こうぶ)= 土地が荒れて雑草の茂るがままになっていること。
⑨ 陋屋(ろうおく)= 狭くみすぼらしい家。
⑩ 箪食(たんしょく)= 一盛りの食べ物;
  豆羹(とうこう)= 豆(たかつき)に盛ったわずかな量のあつもの。
⑪ 孜孜として(ししとして)= 熱心につとめはげむさま。
⑫ 筑波颪颯颯たる(つくばおろし・さつさつたる)


  1. 2013/06/15(土) 08:43:52|
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流山発見;日光東往還(5)

日光東往還」を北上します。途中,祠に出会いました。



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弘法大師を祀る「江戸川八十八ヶ所霊場」の一つでしょうか,未確認です。地図上の位置を記すのを忘れました!

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200年前もあったのでしょうか。街道筋の人通りが見えるようです。

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「稲荷神社前」の信号に来ました。マーク① 柏市新富町にあるので「新富稲荷」とも言うそうです。
次回でこの神社にある立派な石碑を紹介しましょう。


  1. 2013/06/12(水) 07:16:46|
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