写真でつづる流山の道 2015年09月

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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流山発見;野馬土手

1カ月がアッという間に過ぎてしまいました。サボリ癖がついたのか,忙しい日常のためか...
久しぶりに「野馬土手」を歩いてみました。すると解説板が新しくなっていました。
江戸川台東一丁目で気がつき,松ヶ丘一丁目へ行ってみたらやはり新しくなっていました。
2012年5月に行った時にあった解説板と比べると面白いかなと思い,今日のテーマとしました。
手書き・筆文字風で,いかにも野馬土手にふさわしい感じがただよっています。〝以前はこんな解説板があったんだよ〟と語り継がれる意味があるかもしれない,と思った次第です。


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2012年5月に行った時の解説板。新しいものの4倍ほどの大きさでした。読みやすくするために,次に全文を転写します。

野馬土手
 野馬土手は、一般的に「野馬除土手(ノマヨケドテ)」とも「野馬堀(ノマボリ又はヌマボリ)」ともいわれており、野馬が牧外に出て民家に侵入したり、田畑の作物を荒すのを防ぐために作られたもので、土手と堀の部分から成っております。
 土手の高さは約二メートルから三メートル位、堀はV字型に掘られ深さは約二メートルないし三メートル、幅は上部で約三メートルほどあり、低い土手と高い土手の二重に作られたものが多く、低い土手は馬の脚を痛めないようになだらかになっています。
 野馬の育成や増殖は自然に任せていましたが、将軍家などの乗用馬は、牧の中に土手を二重に作り、この中に放ち保護と秀馬の増殖に努めていました。これを御牧馬囲いといい、この区切りの土手を、お囲い土手といっていました。下総地方の牧開発の歴史は遠く律令時代にさかのぼることが出来ます。
 延喜式(平安時代初期につくられた法典集)には下総、高津(現多古町周辺)、本島(不明)、長洲(現茨城県猿島町周辺)、浮島(現墨田区周辺)、大結(現船橋市周辺)の各馬牛牧があげられています。
 時代も下って武家時代に入ってからは軍馬の放養地、供給地として利用されました。
 江戸時代の慶長十九年(一六一四)幕府はこの地に小金牧佐倉牧を設けています。この頃から牧場の仕事も本格的になって来ています。これらの仕事をする人々は「牧士(モクシ)」、「牧士見習」などといわれており、野馬土手や捕込=(とっこめ=馬を追込むために作られた特別の場所)やその他、牧に関する様々な仕事をしていました。
 下総台地一帯の牧は、船橋方面から野田方面にかけて広がり、土手は谷に沿い林を横切り、人家を囲うようにして走り、それはまるで小型の万里の長城のようです。
 市内における野馬土手は、平方原新田(ヒラカタハラシンデン)、上新宿(カミシンシュク)、十太夫(ジュウダユウ)、大畔(オオグロ)、駒木(コマギ)、駒木台、初石(ハツイシ)、松ヶ丘、野々下(ノノシタ)、市野谷(イチノヤ)などにも見られます。
 流山市教育委員会
【片仮名のふりがなは投稿者が補いました】


この解説板に替わって,次のような新しいものに作り替えられました。字が小さくて読みにくいです。!(^^)!

2015_0924_142821-DSC04651.jpg

これも同様に,読みやすくするために転写しました。

松ヶ丘野馬土手
 江戸幕府は、軍事・輸送に大きな役割を果たしていた馬を安定して確保するため、房総各地に直営牧場を設置しました。流山を含む下総には小金牧が設けられ、庄内牧(野田市)上野牧(柏・流山市)・高田台牧(柏市)・中野牧(鎌ヶ谷・松戸・柏市)・下野牧(千葉・習志野・船橋・八千代・鎌ヶ谷市)・印西牧(印西・白井市)の六つに分かれていました。牧は土手と堀で囲われ、生育中の馬が、村落や田畑に侵入し危害を加える事が無いようにしました。堀は牧内に掘られ、掘り上げた土を使って土手を築きました。
 放牧された馬は、野馬(のま)と呼ばれました。幕府は、地元の有力農民に苗字帯刀を許し、牧士(もくし)として取り立て、牧管理の実務を行わせました。周辺の村々には、牧の維持・管理に労働力を提供するなどの負担が割り振られ、野付村(のつけむら)とされました。
 幕府役人は牧士と野付村からの人員を使い、充分に育った野馬を定期的に牧内の一箇所に囲い込み、幕府へ献上する馬を選別し、それ以外を農耕馬として払い下げるために野馬捕りを行いました。
 野付村には、牧管理の負担もありましたが、農耕馬の買い入れや、許可をとって牧内から燃料となる薪や芝・山菜を採取することもできました。牧と村は、野馬土手によって隔てられたように見えますが、牧はこの地域の暮らしを支える重要な役割を果たしていました。松ヶ丘一丁目から五丁目にかけての柏市との士境上に残る野馬土手は、上野牧(かみのまき)の南西区域にあたり、牧内の柏市側から流山市側の向小金新田や名都借村に、野馬が侵入しないように設置されたと推定されます。
 新田開発が盛んになると、牧の内側に新たな野馬土手を築き、村側から耕作地を拡大してゆきます。市内各所に残る野馬土手は、このような新田開発に伴って築かれたもので、全てが同じ時期に築かれたものではありません。耕作地の拡大によって徐々に縮小した小金牧は、明治時代になると廃止されました。
平成二十六年三月二十五日 流山市教育委員会


ここまで読んでくれば,野馬土手について十分理解していただけたことと思います。『ヘーッ!』と思う箇所も多かったのではないでしょうか。まだ見たことのない方は,次のように歩いてください。
JR南柏駅(常磐線各駅停車;快速電車は止まりません)西口に出て,国道6号線(水戸街道)を渡り,左に10mも歩くと,細い道の右手奥に林が見えます。並行しているもう1本の道は,住宅しか見えませんので,間違えないように。その林に沿って行くと,その林自体が野馬土手です。解説板は意外と小さいので見落とさないようにしましょう。


同じように「江戸川台東一丁目野馬土手」でも,このような解説板が設置されています。文面は同じですが,前掲の下線部だけが次のように差し替えてあります。
江戸川台東一丁目の柏市との士境上に残る野馬土手は、上野牧(かみのまき)の北東区域にあたり、牧内の流山市側から柏市側の低湿地に、
行き方は次の通りです。
東武アーバンパークライン(旧東武野田線)江戸川台駅東口を出てロータリーを右手から左回りに半周して,パチンコ屋を通り過ぎ,信号を右折,100mほど行くと左手にまばらな林が見えます。そこです。


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これは江戸川台東一丁目にある野馬土手です。松ヶ丘のものに比べると,大分削れています。ここも「流山100か所めぐり」の一つになっています。










きょうはちょっと長すぎましたね。でも勉強になったでしょう?!

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  1. 2015/09/25(金) 14:00:53|
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