写真でつづる流山の道 2017年03月

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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流鉄流山線:平和台駅

 今日は流鉄の平和台駅です。名称がスッキリしていて、住み心地がよさそうな街です。西側駅前にはイトーヨーカドーがあり、東側は住宅地、市役所や図書館へ歩いて行ける。ブログ子が住んでいる北辺の街よりなにかと便利な地域です。
撮影のアングルは決まってしまうので画像の数は少ないです。それを補う意味で、近くの大原(だいばら)神社境内にある「平和台土地区画整理事業完成紀念碑」を紹介します。それによるとこの辺りは〝冨士見の里〟というらしいです。知らなかった!!

平和台DSC00741
角ばった駅舎が特徴的です。駅前の広場も程よい広さです。
平和台DSC08512
平和台DSC08511
ホームにかかっている屋根は、役目を果たしているのでしょうか?今度、雨の日に来ようと思います。

平和台DSC08513
駅東側から踏切越に見た画像です。イトヨは左手です。

平和台碑2010_0817_085424-DSC01698
大原(だいばら)神社境内にある、「平和台」の経緯を記した碑。ナゼ「平和台」なのかの説明はない。「冨士見の里」がどれほど地域に浸透しているか、ブログ子にはわからない。平和不動産㈱が関係している、と耳にしたような...

富士見の里            流山市長 眉山俊光
平和台土地区画整理事業完成記念碑
 この地は、その昔、風早荘八木郷に属していたが、延宝元年(1673)鎮守の氏神を大原(だいばら)に創建するに際し、西平井村となったといわれている。
 当地は低地の豊穣な農耕地と台地の緑豊かな林からなり、古くから景勝の地として下総の風情を代表する里であった。
明治時代の、流山八景には、「平井の暮雪」と題し“平井村山ふところに灯の見えて里人帰る雪の黄昏”と詠われていた。
 第二次大戦後、未曽有の苦難を乗り越えた日本の再建は驚異の経済成長をもたらし、首都近郊の流山はベッドタウンとして都市基盤の整備が着々と実施された。
 近年になり、南流山にJR武蔵野線が、又北部地域には常磐自動車道が走り、更に待望の常磐新線(首都圏新都市鉄道)が市内に三駅を予定して縦断するという画期的な交通体系が実現されつつある。
 当平和台区画整理事業の区域は熊野坂(市道237号線)と大原神社参道(市道54029号線)とに跨る8.7ヘクタールで既にその西側及び北側は区画整理事業によって字区域を平和台として良好な住環境が整備されている。
 当区域は総武流山電鉄(株)流山線平和台駅より近距離の市街化区域であり、台地と低地の比高差が17メートルもある複雑な地形と狭小な曲折道路であるため、地元有志よりは、早くから健全な市街地造成の必要性が唱えられていた。
 このことより、昭和46年(1971年)から地元地権者と、関係機関で協議を重ね、昭和56年(1981年)7月8日に準備委員会を設立し、漸く平成元年(1989年)3月6日に組合の設立認可を受け事業に着手した。以来9年、小区域で、しかも傾斜地、さらに事業途中でのバブル経済の崩壊という困難さを技術的に又財政的に克服し、緑に囲まれた安全性と住み良さを重視した整然たる街が誕生したのである。
 歴史的に、この地は大原神社の西側に冨士見公園があった場所であり、造成地は眼下に流山市街地の全景と「江戸川」の清流をながめ、更に遙か西方に「霊峰冨士」の雄姿を拝む場所としてこの街一帯を「冨士見の里」と命名した。
 最後に本事業の完成に当り、永年に亘る県・市のご指導ご援助並びに当事業関係者の献身的なご尽力、更に多くの善意ある協力者の事蹟を後世に伝えるためここに慎んで銘記いたします。
    平成10年3月吉日
         流山市平和台土地区画整理組合

                                      <読了お疲れ様でした。>
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  1. 2017/03/26(日) 14:31:51|
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流鉄流山線各駅停車(3)

流鉄流山線の各駅を紹介していきます。きょうは3回目「鰭ヶ崎駅」です。
鰭(ひれ)という漢字が見えますか?大きくすると...
  魚偏に老人の老と日、と書きます。
が年いてに輝くヒレ』とでも覚えましょうか。
隣の駅「小金城址」までは松戸市ですが、坂川を渡ってここは流山市です。
鰭ヶ崎という地名の由来をご紹介しましょう。
『むかし、弘法大師が立ち寄った高台には五色に輝く美しい池があり、竜王が住む所とされていた。大師が山上に立つと、竜王が老翁の姿となって現れ、「この山は東方の福田であり、薬師如来が常住すべき土地であるから、瑠璃光仏を彫って寺を建て、久しくこの地を守ってもらいたい。そして、この山を守竜と呼び、寺を東福としてほしい。」と請願した。大師はさっそく仏像の材料となる御衣木(みそぎ)を探したところ、突然竜が現れ、霊仏を大師にささげ、大師はこれに手を加えて薬師如来を刻んで本尊にした。弘仁五年(814)大師42歳の時であった。竜が背鰭の先を少しばかり残していったので、この地を「鰭ヶ崎」と呼ぶようになった。』というものです。(「チェック!流山のむかし」流山博物館編著・流山市教育委員会発行2016.3.25改訂第6版\780・・・p.48 より)
これは「東福寺縁起」に書かれていることです。東福寺についてはまた別の機会にご紹介します。
それでは画像をお楽しみください。
鰭ヶ崎1  読めますよね。
鰭ヶ崎208545
線路に立ち入ってはいません!踏切で撮りました。
鰭ヶ崎3DSC00696
駅前です。
鰭ヶ崎4DSC00697

鰭ヶ崎5DSC00705

鰭ヶ崎7DSC08532
踏切とホームが近いです。道路からホームに入るような人はいません!(ヨネ!)
DSC08536.jpg
「流星号」・・・リュウセイだと思うのですが。ナガレボシとも読めそうな...
駅員さんがチャンと見守っている姿が好きです。

  1. 2017/03/03(金) 16:31:03|
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