写真でつづる流山の道 (16)慈眼院
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写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

(16)慈眼院

「流山新100か所めぐり」第16番「慈眼院

前回紹介した「浄信寺」と向かい合う位置にある。管理は浄観寺(No.5で紹介)。

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2011_1114_091414-DSC04741.jpg 観音山慈眼院発祥の由来
折々慈眼院建立の由縁を尋ぬるに 慶長五年九月 関ヶ原の戦いに於て 石田治郎少輔三成公の居城 佐和山落城に際し 番頭山田上野之助と嫡子隼人との訣別に当り 父上野之助の遺命に起因すること大なり。佐和山落城記に依れば 汝此の世になかりせば誰か我が菩提を弔ふものなし 我がなき後の一遍の念佛を手向くれるは汝一人なり 又 主人三成落方知れず 運のつきたる人なれば 如何なる害のあらんも知れず 見届けくれよ 其の上 今最期の人々の佛果菩提を弔ふべし 又 時節もあらばこの恥辱をもそそぐべし とあり。大坂落城後一周年の元和二年五月 幼名守吉郎 長じて喜庵と改名 その喜庵により記述された佐和山落城記に明らかなり。記述に依れば 江州(彦根市)佐和山城主石田治郎少輔三成の臣 番頭山田上野之助 同隼人は 智あり 仁あり 才あり 男あり 三成の寵愛浅からず 同孫に宇吉郎という一子あり。慶長五年九月関ヶ原の戦い 同月十八日後刻 佐和山落城 上野之助は嫡子隼人に自害を思いとまらせ 佐和山脱出を厳命し 己は自刃 父の遺命により隼人は五才の宇吉郎を背負い美濃国池田郡(岐阜県揖斐郡)の山中に落ち行き 後 巡礼の姿となり諸国を巡り 慶長十五年関東に下り周易墨占を業とし 宇吉郎に医術を習わせ 深井の里(流山市東深井)に住す。慶長十九年 大阪冬之乱となり 隼人は大坂に馳せ参じて木村長門守重成の軍に加わり 元和元年五月六日 夏の陣にて討死。宇吉郎は医師となり 元和二年五月 佐和山落城記を記述し 戦没群霊の菩提を弔い後世に伝う。慈眼院建立の年代は未詳なるも 喜庵歿後に創建したることと推察し得る。茲に新たに本堂再建を計画し 内部に安置せる十一面観音本尊等も修復彩色し昭和五十五年十二月新築落慶する。山田上野之助の遺言とも言うべき遺命を無言の中に継承し連綿と続く山田家々主は先祖の菩提を弔うべく 慈眼院を氏寺として維持し今日に至った。昭和十年喜庵に依り記述された落城記(東京帝国大学史料編纂所 渡辺世袺博士により 佐和山落城記と命名)慈眼院建立の由縁は更に明らかとなる。茲に本堂再建 山門 塀の新築を記念し 慈眼院発祥の縁起を撰書して後世に伝うるものなり。
昭和五十六年七月                    山田家当主 山田要次郎 撰


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正面が本堂。見学は境内のみとなっている。祠は利根運河大師八十八か所霊場の内「運河霊場六十三番」と書かれている。
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