写真でつづる流山の道 (61)葛飾県印旛県庁跡
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写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

(61)葛飾県印旛県庁跡

「流山新100か所めぐり」第61番「葛飾県印旛県庁跡」《TOP30-17》



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記念碑は図書館・博物館に行く急な坂道の左上にある。下を見ていると見えない。鏡面仕上げのため反射の影響でなかなか良いアングルが決まらない。
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記念碑は図書館の角左手に向こう向きに建てられているのだが,手前のスペースにこちら向きに建てたらよかったのに・・・と思う。
2012_0115_092023-DSC05725.jpg葛飾県 印旛県史跡について
 元和二年 田中藩本多家の祖正重は 数々の戦功により家康から下総一万石を拝領した この地はその飛地領の一部であった
 文久三年六月 本多家十二代の正訥はここに陣屋を建設し 同年九月 江戸深川扇橋下屋敷の藩士を移住させ 飛地領の管理に当らせるに至った
 明治元年十二月葛飾県が誕生し仮役所が東京薬研掘に置かれた 翌二年正月 本多藩は安房国長尾に国替となったため この地を県庁に定め 同月十八日に移転 三月に御用始めを行った その後 明治四年府県の統廃合により印旛県が誕生し 引き続き明治六年千葉県に統合されるまで 県庁としてこの地が行政の中心舞台となったのである
 流山市は この地に市制十周年を記念し 流山市郷土資料館を建設するに際し 県の補助を得て史跡顕彰の碑を建立した
   昭和五十三年三月二十日 
   流山市長 石塚 健

博物館開設に当たっては,永井仁三郎・相馬大作・関良助の功績が大きかった。

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【市立博物館の展示解説文;画像はありません】
県庁が置かれる
 明治になると、元幕府領や元旗本領は、知県事(ちけんじ)が支配することになりました。流山市域では、木村は武蔵知県事、ほかの村々は下総知県事の支配となりました。
 そして、明治2(1869)年にそれぞれ小菅県と葛飾県となります。葛飾県は、現在の茨城県と埼玉県の一部を含み、県庁は江戸川沿いのために交通の便がよく、栄えていたこの地に定められ、加村にある空いていた田中藩本多家の下屋敷が使用されました。
 明治4年、葛飾県を母体として印旛県が誕生します。さらに明治6年に千葉県となりますが、それまで一時(いっとき)を除いてこの地に県庁が置かれていたのです。


【以下の画像は,「流山市立博物館調査研究報告書23 子ども向け展示ガイド 博物館でタイム・トリップ」(平成18年3月 流山市立博物館発行)P.40からコピー引用しました】
〝子ども向け〟の解説はとてもわかりやすいのです。

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  1. 2012/03/17(土) 09:24:50|
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