写真でつづる流山の道 (66)常与寺

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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(66)常与寺

「流山新100か所めぐり」第66番「常与寺



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2010_0708_124802-DSC01310.jpg左右の写真を見比べてください。門柱の位置が変わっていますね。左は2010年7月8日撮影,右は2011年1月23日撮影。写真は過去を伝える道具だということがわかります。
駐車場の塀が取り払われたようです。


 2011_1023_095539-DSC04384.jpg


2011_1023_095352-DSC04380.jpg千葉師範学校発祥之地
  印旛官員共立学舎跡
 明治五年「1872年」八月学制発布の頃、流山は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を行政区域とする印旛県の県庁所在地であった。
 学制が発布された年の九月、時の印旛県令河瀬秀治は、いままでの教育機関――寺子屋などを、九月限り廃止することを命じ、同時に小学校の新設を宣言した。文部省に提出された実地施行書には、「学制ニ因リ教則ニ随ヒ官員協力仮ニ小学校九月二十三日開業候事、教授人ハ官員中ヨリ当分之ヲ勤メ、費用ハ官員熟議左ノ制ヲ設ケ当分之ヲ償フ。奏任官々給十分ノ一、判任官々給廿分ノ一 ------」とある。
 県令以下の官員が月給の一部を醵金して、明治五年九月に開設した学校、それが「流山村常与寺」の「印旛官員共立学舎」である。
 共立学舎は学制により新設される小学校の模範であり、小学教員になろうとする人びとに、教授の内容・方法を実際に習得させる場所であった。「伝習員」とよばれ、印旛県内各区から選出された人びとは、試験ののち十一月はじめに入学、六十日間教授法を学んで各地の小学教員となった。
 まさにここ常与寺に、学制に基づく教育はうぶ声をあげたのである。この共立学舎は、鴻ノ台学校と改称流山村光明院に移り、ついで印旛・木更津・新治三県の統合により千葉県が誕生、県庁が千葉町に移ると、千葉学校と改称し、千葉町正妙寺に移転した。更に明治七年千葉師範学校の発足へとつながった。また常与寺はその後も流山小学校として、地域教育の中心となり明治廿二年現在地に移るまで存続した。
 時、1982年、学制発布百十年に当たり、流山市の教育関係者有志は、ここに記念碑を建立し、学制の原点に立ち教育の振興を願うものである。
  昭和五十七年十一月   共立学舎記念碑設立実行委員会


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紙本著色日蓮上人像(常与寺)
流山市指定有形文化財第二十八号

 金箔地に、上段に「南無妙法蓮華経」のひげ題目、下段に日蓮上人像を描く。日蓮上人(一二二二~一二八二)は、日蓮宗をおこし、南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、仏の救いにあずかることができると説いた。
 箱書から、宝暦七年(一七五七)唯心院妙持信女のため須藤喜平治が寄進したことが知られるが、作風はそれよりも古いものを示し、貴重な江戸時代の作品である。
    流山市教育委員会






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  1. 2012/03/24(土) 07:27:24|
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