写真でつづる流山の道 (68)近藤勇陣屋跡 《TOP30-4》

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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(68)近藤勇陣屋跡 《TOP30-4》

「流山新100か所めぐり」第68番「近藤勇陣屋跡」《TOP30-4》



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近藤勇と土方歳三の離別の地として知られている。滞在時間は1日ほどだったが,歴史のうねりの一コマを作った所だ。目に見える物はないが,140年のタイムスリップを想像してみよう。

2010_0610_140432-DSC01150.jpg 2010_0610_140441-DSC01151.jpg
解説板の左下が見えないが『慶応』とある。
2010_0610_140613-DSC01154.jpg 2011_0615_100456-DSC03373.jpg
背景の土蔵は現在は秋元酒造会社の建物で,手前の塀と柵に囲まれた部分が〝陣屋跡〟だということです。

2011_0615_100620-DSC03376.jpg近藤勇陣屋跡
 文久三年春以来京師にあって勇名を馳せた新撰組は慶応四年正月鳥羽、伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同三月甲州路勝沼に出陣して官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙をはかった。
 当時の流山は水陸交通の要衝、醸造業の地として知られ、各種問屋・船宿・旅籠等軒をつらね本多氏下総領管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。ために江戸を脱出した幕兵のこの地を慕って屯集する者、また数を知らなかった。
 甲陽鎮撫隊は三月二十日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にしてすでに一大勢力となっていた模様である。
 一方、官軍においては、その東山道軍先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向かう途次、この風聞を耳にした。直ちに香川敬三指揮する一隊流山に来攻、策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い縛に就かした。時に慶応四年四月三日の夕刻である。
 一説に、近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという。
 老松古椎に往時を偲んでここに遺跡の石碑を建てる。
     昭和五十一年三月   流山市観光協会


2011_0615_100658-DSC03377.jpg 2011_0615_100705-DSC03378.jpg

2011_0615_100716-DSC03379.jpg(解説板左側の年表は割愛して,中央の2枚の解説を転写します)
新選組の誕生から江戸帰還まで【ここでは〝新選組〟と表記しているが〝新撰組〟の表記もある。】
 文久3年2月、多摩出身の天然理心流宗家・近藤勇は、門人の土方歳三らと上洛し、3月に同志と「京都守護職松平肥後守御預浪士組」を結成。浅葱色の羽織を着て市中見廻(治安維持)を任務とした。8月に「新選組」を拝命、9月には筆頭局長の芹澤鴨らを粛清し、近藤局長・土方副長の体制となった。翌年6月の「池田屋事件」では長州の京都放火・天皇拉致計画を未然に防いで名声を馳せた。
 慶応3年6月、黒羽織・黒袴で活動した主要隊士は、幕府直参の武士の身分となったが、「大政奉還」や「王政復古の大号令」を経て、館賊の立場は逆転した。
 慶応4年1月の鳥羽伏見戦争で、旧幕府軍(会津・桑名・新選組など)は薩長軍に敗走して江戸へ戻った。近藤は甲陽鎮撫隊を組織して、3月1日に甲府入城を目指し出立したが、甲州柏尾坂で新政府軍の攻撃を受けて敗走した。

流山での新選組とその後
 3月中旬に永倉新八や原田佐之助らが脱退し、六十余名となった新選組は、五兵衛新田(足立区西綾瀬)の金子邸に屯集、歩兵などを取り込み下総鎮撫隊を組織して、4月1日夜に二百数十名が流山へ転陣した。
 「丹後の渡し」から流山に入った下総鎮撫隊は、醸造家の永岡三郎兵衛方を本陣とし、光明院などに分宿した。情報を得た新政府軍が3日に「羽口の渡し」から急襲し銃撃を交えたが、本陣は包囲された。大久保大和(近藤勇の改名)は切腹を決意したが、内藤隼人(土方歳三の改名)は近藤の改名が知られていないことを利用し、徳川家の鎮撫隊を主張し説破するよう勧めた。
 大久保は出頭して「矢河原(やっから)の渡し」から流山を去り、事情説明のため越谷宿(埼玉県越谷市)に赴いたが、新政府軍により板橋宿へ連行され、大久保が近藤勇であると露見し捕えられた。
 土方は江戸で勝海舟らに救出工作を試みるが、近藤は4月25日に板橋宿で処刑、梟首された。残された新選組本隊は流山を脱出し、会津を経て箱館戦争で降伏、土方も戦死した。



2011_1019_103436-DSC04355.jpg
解説板右端の地図を拡大しました。




















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  1. 2012/03/26(月) 08:09:10|
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