写真でつづる流山の道 (77)光明院

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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(77)光明院

「流山新100か所めぐり」第77番「光明院」《TOP30-15》
小林一茶と秋元双樹を偲ぶ場所。小生は知識が少ないので,後日勉強してから,改めてまとめて紹介します。



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『新撰組 隊士分宿の寺』                             『一茶ゆかりの寺』
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たくさんの見どころがある・・・
赤城神社・双樹句碑・一茶双樹連句碑・一茶句碑・松本翠影句碑・流山寺・一茶双樹記念館・アトリエ黎明
秋元酒汀墓・大〆縄・初代流山町長の碑・多羅葉樹・灯籠5基・塔2基・無患子の木・垂れ桜・コブシの木

多羅葉(たらよう)(モチノキ科の常緑高木)
通称「はがきの木」。たらようと言う名は、インドで葉面に経文を書きしるした貝多羅(ばいたら)樹(ヤシ科)にその葉を比して名づけられたもの(ちなみに世界最古の貝多羅葉般若心経写本(八世紀後半)が法隆寺に伝えられている)。
葉の裏に爪やマッチの軸等で字や絵を描くことができ、長く残る。〝葉書〟の語源の説もある。花は五月上旬ごろ緑黄色で一年おき、西暦奇数年に木全体に咲く。尚中国の李白の詩や、「南総里見八犬伝」等の中に葉の手紙が出てくる。
ご自由に手の届く葉に字をお書き下さい。(30秒くらいで字がはっきりでます)



DSC00726.jpg菩薩形坐像(光明院 旧長福寺)
流山市指定有形文化財 第五号

 像高四九・二センチメートル。ヒノキの一材から頭と体の主要な部分を彫り出し、手や足を剥ぎつける構造であったが、剥ぎつけた部分は失われている。
 当初は全身に漆箔(しっぱく)を施し、額の中央の白毫(びゃくごう)に水晶をはめ込んだ金色に輝く尊像であったと思われる。頭部をやや右に傾ける姿勢や両肩の剥ぎ面が広いことから、六臂(ろっぴ・腕が六本ある)で右脚を立てた如意輪観音であったと推定される。
 丸いふくらみのある顔や柔らかな肉身、切れ長の眼とやや小さく引き締まる鼻や唇をもつ表情、高く華やかな髷などの特徴から鎌倉時代一三世紀後半の作とみられる。    流山市教育委員会


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長月朔日(ながつきついたち)
豆引きや 跡は月夜に 任す也 双樹
烟らぬ家も うそ寒くして 一茶

(意味)
九月一日
 うれしい取入の豆引だが、ああ疲れた。見れば一面の抜き跡。あとはお月さんにお任せして、さぁ引き揚げよう。 双樹
 そうだね。夕飯の炊事の煙があちこちから棚引きだし、大気がひんやりしてきた。まだ煙が立っていない家までも、なんとなくうそ寒い感じだよ。 一茶
(解説)
 これは文化元年(一八〇四)に、下総流山の酒造家で俳人の秋元双樹(五代目三左衛門)と、当時双樹の庇護を受けていた俳人小林一茶とが、双樹邸で詠んだ連句です。「豆引」というのは、大豆などを畑から引き抜く農作業で、往時の流山での秋夕の一景が詠み描かれています。
 なおこの句碑は双樹自筆の文字を拡大して刻まれ、昭和五十三年秋、双樹忌において両子孫が百数十年ぶりに対面して除幕されました。また本堂の右前にも別の双樹句碑が建てられております。


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庭掃(にわはい)てそして 昼寝と時鳥(ほととぎす)    双樹
 俳号「双樹」は、かつて流山の酒造業、味醂醸造元の一軒であった五代目秋元三左衛門。宝暦七年(1757)の生まれで、文化九年(1812)に没した。享年五十六歳、当院墓地に眠る。
 小林一茶と親交を重ね、一茶はこの地に足繁く通った。筆は長野県信濃町、一茶記念館名誉館長清水哲氏による。石は同町鳥居川産出のもの。なお二人の交遊が縁で、一茶の出身地信濃町と流山市は、平成九年、姉妹都市となった。流山市市制三十年を記念したものである。句は、一茶関係文書「随斎筆記」による。
    平成十年四月


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松毬(まつかさ)のからからと秋気(しゅうき)澄みにけり
松本翠影(1891~1976)
本名、半次郎。明治二十四年(1891)六月六日、流山の材木商の家に生まる。当時の当院住職の勧めに従い、豊山中学校に入学、三年生の時、縁あって俳人内藤鳴雪(めいせつ)に師事。やがて早稲田大学に進んだが、家業のため中退帰郷、明治四十四年(1911)郷土の先輩秋元酒汀(しゃてい)を擁して流山で発行した俳誌「平凡」(のち「ツボミ」と改題)は、夙(つと)に世に知られた。大正三年(1914)家業を廃して上京、俳誌「新緑」「ましろ」等の編集発行人をつとめ、昭和十四年(1939)主宰誌「みどり」を発刊、以後これに拠った。多くの職歴を経たが、特に話芸に秀で、その方面の活躍にも顕著なものがある。碑は別に、東京上野山内の西郷像の後方、秋色桜(しゅうしきざくら)碑の脇に、「鶴の檻(おり)さくら吹雪の中にあり」があって、名句碑とされる。昭和四十二年(1967)、喜寿を祝して知友から贈られたもので、同山内の現代俳人の句碑は、これのみという。
   昭和五十一年(1976)三月六日没。
   行年八十四歳。菩提寺当院に眠る。
   戒名、俳徳院湛露(はいとくいんたんろ)翠影居士。


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中村重年顕彰之碑五世権次郎。天保四年(1833)一月十五日、流山に生まる。
明治二十二年(1889)六月より明治二十六年(1893)六月までの間、初代流山町長の任にあった。また、店の名を老舗中権(しにせなかごん)といい、金物、砂糖、紙類等を商う家業の傍ら、銀行頭取の職をも勤めた。なお、碑の撰文、揮毫は、当代一流の人の筆に成る。
   明治三十四年(1901)二月十六日没。
   行年六十九歳。当院に眠る。
   戒名、篤学院如實知道(とくがくいんにょじつちどう)居士。


2012_0401_093434-DSC07188.jpg秋元酒汀(あきもと・しゃてい)(1869~1945)
本名。平八(五世)、幼名、半之助。別号、濡鷺堂(ぬれさぎどう)。安名、凡鳥(ぼんちょう)。明治2年(1869)1月20日、流山の豪商秋元平八家(通称「お見世」、酒、味醂、醤油醸造販売業)に生まる。上京して二松学舎、東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業、帰郷して家業を継承し、地域の有力者として重きをなした。一方、中央の文人、画人らと深く交遊する中で、自身も活発に文学活動を展開、また各種の文化運動にかかわり、その推進に尽力、あるいは人々の活動を後援するなどして、時代に大きな足跡を残した。すなわち、若くして、俳諧に親しみ、尾崎紅葉、巌谷小波らの秋声会に属し、俳誌「卯杖」に依った。明治34年(1901)発行の「胡沙笛(こさぶえ)」は、明治期個人句集の嚆矢とされ、「小野小町」「在五中将」等の著も知られる。明治35年(1902)には、窪田空穂らと「山比古(やまびこ)」を創刊し、島崎藤村、国木田独歩らがこれに執筆した。また、美術を愛好し、五浦(いずら)時代の岡倉天心を中心とした横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山、寺崎廣業等の日本美術院創設に参加、積極的にその活動を支援した。特に春草に対しては、画業研鑚の資を投じて後援。その作品で重文の「黒き猫」「落葉」は、酒汀のために描かれたものという。明治44年(1911)の松本翠影らの郷土の俳誌「平凡」(のち「ツボミ」と改名)の編集、発行にも、中心的な大きな存在であった。晩年は、家業を廃し、自適した。
昭和20年(1945)1月19日没。行年77歳。菩提寺当院に眠る。戒名、凡雅酒汀居士。





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  1. 2012/04/05(木) 09:10:45|
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