写真でつづる流山の道 (80)江戸川-2

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

(80)江戸川-2

「流山新100か所めぐり」第80番「江戸川-2」《TOP30-5》



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前回に引き続き「江戸川」です。その起点を訪ねてみます。所在地は埼玉県五霞町ですが,感覚的には千葉県野田市関宿町,千葉県の北西端,チーバクンの鼻先に相当する所です。関連することとして“利根川の東遷”についても最期に少し紹介します。河川改修は大規模な土木工事です。水の流れを操るのは天下国家を動かす意味があるのです。八ツ場ダムの是非が議論されていますが,江戸時代にも利根川の水害をドゲントセニャイカンということがあったのです。その利根川改修に伴って「太日川」が一時期「利根川・刀根川」となり「江戸川」として再生したというわけです。『江戸川が利根川だった?』ということを知っていても損にはならないと思います。

2012_0126_135437-DSC06008 パノラマ写真
江戸川の始まり地点。右からの流れが水門を通って江戸川となる。洪水が心配される時には水門を閉めて利根川の水量を増やす役目だ。
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かなりの水量と速さで江戸川が始まる。水門の上にはゲートを操作する機械類がある。
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関宿水閘門(せきやど すいこうもん)
 関宿水閘門は、江戸川流頭部の改修工事に伴い、利根川より江戸川に入る水量と水位の調節を行うために建設されました。
 工事は、大正7年(1918)11月に始まり、昭和2年(1927)に完成しました。
水閘門の本体である堰柱(せきちゅう)と翼壁(よくへき)にはコンクリートを用いていますが、隅石等には花崗岩を張り、煉瓦(れんが)造り水門の水門様式も残しています。
 水閘門は、その字の通り、流量調節を行う「水門」と、船の運航のための「閘門」を併せ持つ施設です。水門の開閉にはディーゼルエンジンが使用され、閘門の開閉は人力で行われていました。
 関宿水閘門が完成すると、それまで江戸川流頭部の水量調節の役割を担ってきた「関宿棒出し」は、昭和4年(1929)に撤去されました。
           国土交通省 江戸川河川事務所


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2012_0126_135956-DSC06022.jpg上下4枚の写真は〝閘門〟の部分。船の通行のために水位を調節する設備。意外と幅が狭い。



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2012_0126_140243-DSC06027 パノラマ写真
“水閘門”全景。この水閘門の向こう側右手が「江戸川」となる。浚渫船が待機している。
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水門                                            閘門

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“海から59.5km”。流山橋ふもとで27kmでしたね。     水閘門の上は歩いて渡れる。
2012_0126_141505-DSC06048 パノラマ写真
水閘門端から北を眺める。水流はこれから江戸川になるであろう水だ。利根川は見えないが,正面奥にある。

2012_0126_141904-DSC06053.jpg利根川治水大成碑
【関宿水閘門;中之島公園内の石碑だがほとんど読めない。近くの解説板を筆記転写する】
内務大臣従三位勲一等 安達謙蔵題額
 利根川は我国最大の河川であり、流域一五、〇〇〇㎢、舟運距離八八〇km、灌漑面積一二万haに及び水利の恩沢も広大で世人も〝坂東太郎〟と呼んでいるほどである。
 しかしその反面古来から氾濫による水害区域は実に一四万㎢に達し徳川幕府も頭を痛め治水を最重要施策にとりあげ、河道の改修、堤防の修築など幾多の変遷を経てきたが施工が全川一貫したものでなかったため水害は依然として絶えなかった。
 明治維新の後、政府はここに見るところあり、明治五年(1872)技術者をオランダより招いて全国に亘り河川・港湾の修築を計画させ、同八年(1875)先ず手を利根川に付け国費をもって江戸川松戸の地に粗朶工水制をはじめた。同一五年(1882)榛名山(群馬県)に砂防の工事を起したが、いずれも低水工事にとどまっていたので一八年、二九年、三一年など高水は頻繁に至ったために、田畑は荒廃し、民力も疲弊し、このため、世論も騒然となった。
 ここにおいて、政府も高水の防備を急として、第一四回帝国議会の協賛を経て明治三三年度より、内務省の直営として、新らたに治水の工事を起こし、先ず下流の佐原町以下四四kmを第一期工区として開始し、四〇年度からは上流取手町に至る五二kmを第二期工区に、四三年度からは更に上流烏川合流地点の沼の上に至る一〇八km間を第三期工区として全川に亘り、工程を進めたのである。しかし高水は相つぎ明治四三年(1901)八月の洪水は関東一帯にひろがり予定の水量を超え、損害の大なることは近古未曽有と称された。
 時の政府もがく然とし、ただちに臨時治水調査会を設けて、全国に亘る根本的な治水計画を樹立した。ここにおいて利根川もまた従来の規模を拡大し且つ四四年度からは江戸川を、大正五年度(1916)からは中川を追加して全川一八八kmを七工区に分け、それぞれ主任技術官を配し、施工の部署を定め機具を整備し、修繕の工廠を置き、工事は堅牢を旨として直営による工事を一斉に進めたのである。
 上利根の高水量はこれを五五七〇㎥/sと定め、渡良瀬川には面積三五〇〇haの遊水地赤麻沼・古河間に設けて高水を貯めて直接利根川に及ぼすことをさけた。江戸川へは二、二三〇㎥/s分流させ、また鬼怒川からは九七〇㎥/sを受け入れ以下河口銚子に至るまでを四三一〇㎥/sと定めたのである。河幅は上下を通じ五五〇mをもって標準としたが沼の上(現利根川一八六.〇km地点)より赤岩(一五八.〇km地点)に至る二八kmは特に六〇〇mとし、木野崎(一〇二km地点)から取手(八六.〇km地点)に至る一六km区間は地形を考慮してこれを遊水帯とした。また佐原以下一六km区間はつぎつぎに拡大して末端の河幅を六〇〇とし、堤防をここで終わらせることとした。江戸川を二三六mないし四〇〇m、中川を一〇〇mないし一四五mとした。新河道は水量・幅員・勾配に応じて屈曲部は直線にし、高い所は削り、狭い所は引堤を行ない、堤防の無い所は堤防を築き、激流の当るケ所には護岸、水制を設け、用水悪水の樋管を改築し、堤防両側の傾度をゆるやかにして内外に小段を設けて高水の際にあたっては、余裕高をもって高水が流れるようにした。
 その改修のため河状の変った所は上利根においては八斗島王道附近で左岸を拡げ石張して本川と烏川との合流地点の水勢をやわらげるようにし、烏村(尾島町)前小屋一帯の乱流ケ所には直路を設け、八斗島島村・中瀬・平塚・葛和田等の左右堤論争の地にはことごとく新堤を築き、福川口には樋門を設けて逆流を防ぎ、また随所に護岸水制を配して流勢をやわらげ堤脚を守ることとした。
 中利根においては赤堀川を拡張修築し本流となし権現堂川を廃川としたが灌漑用の樋門を北に設けている。木野崎の狭さく、屈曲と小堀の盤曲とを改めてともに直路とした。鬼怒川では新川を野木崎に開いて、本川への合流をスムーズにし、小貝川には合流点から上流八.〇kmの間を改修、また高須の屈曲を直路に布佐市川の狭さく部を拡張したのである。
 下利根においては出津(六七.五km)金江津(五五.〇km)神崎(四九.〇km)結佐(四四.〇km)の河身のまがりくねりを修めて直流とした。
 支川の将監川は合流点をふさぎ廃川とした。印旛沼には長門川を開いて水門を設け、横利根川もまたこれをとざし、霞ヶ浦沿岸での水のあふれるのを防ぎ閘門をここに設けて舟筏の通るようにした。大倉(三二.〇km)太田新田間の低湿地には延長二〇kmの一大新川を開き、両岸に堤防を築き、怠栖軽野の旧北零水路を拡築浚渫して霞ヶ浦、北浦、浪逆浦の水位低下に資することとした。
 派川である江戸川においては龍頭を山王地先に移し、本川より所定の水量を分派させ水堰及び閘門を設けて、これを調節し舟運に便ならしめ、また幕府以来関宿に久しく設けていた高水時流入制御用の棒出しはこれを撤去し、流末行徳には放水路を設けて高水の流通をよくするようにしたのである。
 中川においては吉川町以下二四kmの間を浚渫、拡張して潮止(一九.〇km)地先の屈曲部をなおし、附帯工事として庄内古川には羽生領島中領、五霞村の諸水を流通させる水路を島川以下松伏領に至る延長三二kmの間を改修または新設して、水位の低い中川に導いて江戸川より分離することにより、東部平野の排水を容易ならしめようとしたのである。
 大利根川全川の工事を総括すると、土地六、七〇〇ha、夫役二七万人、工程は主として機械力により、掘さく機、機関車、土運車、浚渫船、曳船、土運船の大きい物から、人力、馬力、軽便な軌條土運車、小舟、手車、人肩の小さな物に至るまですべて用いなければならなかった。
 築堤の延長五二〇km、土量六、七〇〇万㎥、掘削、浚渫一億二、〇〇〇万㎥、護岸、水制を設けること二〇〇km、閘門二、水堰一附帯の水門、樋管および水路二五二ケ所をかぞえ、工費は実に六、三四〇万円となり、さらに用水、悪水組合への負担金一七七万円、改修以前の低水費および砂防費二一七万円を合計すれば利根川直営工事の経費総計六、七三四万円に上り、明治八年に始めて沈床工を試みて以来、昭和五年度(一九三〇年)改修竣工に至るまで誠に五五年を経たのである。
 昭和五年一〇月一五日すなわち竣工の式典を栗橋町の権現堂川閉塞堤上にて行なわれ、出席者は安達内務大臣以下内閣当局および東京、千葉、埼玉、群馬、茨城の各都県知事等、約二、〇〇〇名となり稀にみる盛大さであった。思うに歴世至難の業であった本改修工事はその規模において、その事量において海内無比、真に明治、大正、昭和の三期に亘る治水土木の最大なるものというべきものである。
 しかも、本改修工事の竣成を告げるに至ったのは国および関係都県の資力と沿岸地方民の協力と、幾多文明の機械力と、多数役務員の永年不屈の努力との賜にほかならず聖世至大の恵沢炳乎としてここに存す。
さきに竣功した渡良瀬川の改修工事と相待って関東平野の大半は今後長く水害よりまぬがれ衆民の生活は安定し、産業はよりいっそう発展するであろう。
 竣功にあたり沿岸地方の有志が集まり碑を建て工事の概要を刻むこととなって文章を私に依頼して来た。私は同僚とともに工事にあずかり今またこの作業ができることは望外の喜びでありこれに応じてここにそのいきさつを誌すこととなった。
   昭和六年三月
   内務省東京土木出張所長
               内務技師正四位勳三等
                  工学博士 真田秀吉撰


2012_0126_144823-DSC06099.jpg三縣鶏鳴之地    関宿町長 河井 弘 書
【裏に】由来
古来関宿城下を訪れ泊する旅人、船人多く 早暁ときを告ぐる鶏鳴、千葉・茨城・埼玉の三県より聴こゆるを以って、誰となく、いつとはなく「三県鶏鳴之地」と呼ぶに至れり。
又「関八州まほろばの地」と呼ぶもありて 我等こぞって誇りとすべき地なり
選文 林 保
平成八年一月吉日 関宿ライオンズクラブ建之


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                                    背後は「千葉県立関宿城博物館」

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千葉県の西北端。中央の水流は利根川。筑波山が近い。














利根川の東遷【関宿城博物館で入手したパンフレットからコピー・抜き書きしたものです。解説の作成は「建設省(当時)関東地方建設局 利根川上流工事事務所」―――現在では入手できません】

近世以前の利根川は、鬼怒川・小貝川とは水系を異にし、乱流・変流をほしいままにしながら、埼玉平野を数条にわかれて、東京湾(江戸湾)に向かって流れていました。これが天正18年(1590)に徳川家康の江戸入府を契機に、江戸時代の初期約60年間において関東代官頭伊奈氏を中心とした、利根川の数次にわたる瀬替工事等が行われた結果、太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は後に〝利根川の東遷〟と言われるものであり、これによって現在の利根川の骨格が形成されました。


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《第一段階》
江戸時代以前、文禄三年(1594)以前の利根川は、葛和田(埼玉県妻沼町)、川俣から南東方向へ、粕壁(春日部)、草加を通って東京湾に流れる流路でした。(隅田川は利根川だった!)葛和田の東、川俣で「会の川」と「現在の利根川の流れ」の二つに分かれていた利根川。会の川の方は、川俣から南東に流れ、今の加須市から古利根川筋を通り、杉戸、粕壁のあと、吉川で荒川を合流し、隅田で入間川を合わせ東京湾に注いでいました。一方の、現在の利根川の流れの方は、大越(加須市)の対岸で北側に向かい、渡良瀬川に合流するものでした。



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《第2段階》文禄三年(1594)
川俣から川口間を締切り、乱流する流路を整理したことを「会の川の締切」という。同時に派川を東方に開削して、渡良瀬川の下流にあたる太日川(ふといがわ/ふとひがわ)に分流させた。この太日川が江戸川となる。



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《第三段階》元和七年(1621)
新川通・赤堀川の初開削は、佐波から栗橋の間、及び赤堀川を始めて開削して、権現堂川分派点から江戸川流頭部までの流路を開いた。



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《第四段階》寛永年代(1624~43)
栗橋から五霞の南を流れ、関宿で江戸川に通じる流路を作り、関宿から金杉間を開削し、権現堂川と江戸川分派点から五霞の東を通り、境町地先までの流路を作った。



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《第5段階》承応三年(1654)
赤堀川の開削・掘削は、江戸川開削とならんで最も大きな事業。元和七年(1621)には、幅わずか7間であったのが寛永二年に三間を増幅し、承応三年には10間の幅の中でさらに3間の深さを増し、通水。こうして利根川の流水が赤堀川へ注ぐようになり、東遷・流域変更が完成するのだ。














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  1. 2012/04/12(木) 11:25:13|
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