写真でつづる流山の道 (82)東福寺

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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(82)東福寺

「流山新100か所めぐり」第82番「東福寺



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次回予定の「千仏堂」は,以前は300mほど離れた所にありましたが,現在では東福寺境内に移されています。今日の「東福寺」の写真の中に写っていますが,「100か所めぐり」としてはまだ分かれて登録されているので,次回「第83番:千仏堂」(地図のマーク②)として再び取り上げます。

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境内入り口には石仏や96基(100基の内4基破損)の庚申塔がある。52段の急な石段を上ると・・・
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石段の上には仁王門,そして中には阿形と吽形の金剛力士像がある。











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2012_0315_103328-DSC06870 パノラマ写真
境内ほぼ全景。左端に「千仏堂」,右端に中門が見える。

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右手が本堂,左手が千仏堂。移転前の姿は次回「第83番:千仏堂」で紹介します。













2012_0205_092211-DSC06281.jpg密厳堂(みっこんどう)(興教大師堂(こうぎょうだいしどう))
このお堂には真言宗中興の祖、興教大師覚鑁(かくばん)上人をお祀りしております。上人は真言宗を開かれた宗祖弘法大師がご入定されてから二百六十年後、平安時代の後期に現在の佐賀県鹿島市において誕生されました。二十歳のとき高野山に登られ、厳しい修行を重ねて深い知恵を開発され、三十八歳のとき鳥羽上皇の庇護を受けて仏教研究の道場である大伝法院とお住まいである密厳堂を建てられ、真言宗を復興されたのです。この八角堂はその密厳堂をかたどって平成四年の八百五十年ご遠忌を記念して岐阜県関市の亀山建設株式会社の施工により建立したものです。







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境内右手の中門の梁には有名な左甚五郎作と謂われる〝目つぶしの鴨〟の彫刻が掲げられている。門の西側に〝口を開いて後ろを振り向いている鴨〟(写真右),東側に〝口を閉じてまっすぐ左を向いている鴨〟(写真左)が見える。仁王像の阿形と吽形のようだ。〝眼〟が描かれていないのがわかる。
左甚五郎が彫った鴨の彫刻が夜中に動き出し,田を荒らしたことがわかって,その鴨(の彫刻)の目に釘を打って眼をつぶしたら,その後は田を荒らされなくなった』という民話がある。








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守龍山証明院東福寺の指定文化財
【流山市教育委員会設置】











東福寺二十一仏板碑       流山市指定有形文化財第二号
板碑は鎌倉時代から室町時代の石塔婆である。二十一仏板碑は、十六世紀の関東のみで造られ、その数も数十基しか確認されていない。板碑は当初武士が建てるものであったが、二十一仏板碑は山王信仰や庚申信仰などの民間信仰と結びつき、信者の仲間が造立したと考えられる。

「俵藤太百足退治の図」絵馬   流山市指定有形民俗文化財第六号
俵藤太(藤原秀郷)が琵琶湖の主の大蛇を迫害する百足を退治した伝説から、大蛇が勢田の唐橋で女性の姿となって、藤太に百足退治を頼んでいるところを美しい色彩で描いている。文久三年(1863)渡辺庄左衛門らが奉納している。

金剛力士立像      流山市指定有形文化財第十一号
像高二メートル七〇センチ、市内では最も大きい像である。山門の中に立って寺院を守り、仁王像ともいわれる。向かって右が目をむき口を開いた阿形像で、左が口を閉じた吽形像である。裳裾(もすそ)や天衣(てんね)をひるがえし、形相は通常の金剛力士像で、伝統的な表現に従ったものである。

阿彌陀如来立像付千体阿彌陀如来立像  流山市指定有形文化財第十三号
像高約九〇センチの中尊阿彌陀如来立像と千体の小ぶりの阿彌陀如来立像で「千仏」と呼ばれている。中尊は来迎印を結び、口を軽く開けるいわゆる「歯吹きの彌陀」で、その左右に十段ずつ小ぶりの阿彌陀如来が安置される。江戸時代中葉(十八世紀の終わり頃)に造られたと考えられ、当時の信仰を知る貴重な資料である。道路を隔てた北側の奥の院「千仏堂」に安置されていたが、平成十九年修理後本堂近くに移座された。

紙本淡彩大日如来像      流山市指定有形文化財第二十四号
智拳印を結ぶ金剛界大日如来である。上方に真言宗の高僧飲光(おんこう)の賛、向かって右下に頭陀嶺山の落款がある。飲光の没年から文化元年(1804)以前の作品であることがわかる。

絹本著色道興大師像       流山市指定有形文化財第二十七号
道興(どうこう)大師は空海十大弟子のひとりで、空海の信頼が最も厚く、教王護国寺(東寺)の第二世となった。大師の略歴・業績を記した賛が大師像の上方に書かれ、この賛から元和五年(1619)の作と知られる。



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当山の沿革(写真左)
 当山は守竜山証明院東福寺と号し天暦(てんりゃく)五年秀岳記(しゅうがくき)の縁起によれば、当山は弘仁(こうにん)五年弘法大師の開山せられたる霊地にして、東方の福地・神竜の守護する所なり。即ち、大師ご留錫(しゃく)の砌(みぎり)、五色池に住める竜王、老翁の姿となって、大師に仏像を刻み伽藍を営むことを請う。時に山の渺渺(びょうびょう)たる滄海(そうかい)に忽然として海竜現われ大師に竜宮の霊仏を捧ぐ、大師香を焼き礼をなして、この像に刀(とう)を加え妙相円(みょうそうまど)かなる薬師如来となし、当山の本尊とす、その際海竜鬐(せびれ)の先少しばかりをのこせり、これより当地を鰭ヶ崎と称す、天慶(てんぎょう)三年下野大守(しもつけだいしゅ)藤原秀郷、平将門追討に当りて当山本尊の加護を請(こ)い、効験あらたかなり、ために朱雀天皇勅(みことのり)して金堂を修覆せしめ、荘田(しょうでん)五百石を賜うと、その後寺運愈々(いよいよ)栄え、江戸時代には大本寺として御朱印地領参拾石を有し、末寺百参拾弐ヶ寺を統理し、移転寺格を許さる、山容今にその面影をとどむ
     当山現住  恵水謹識


境内地返還記 (写真右)
 当山境内地は、本来四六六六坪ありしが、昭和二十六年、その中三、五六二坪余が無償讓与せらる。然れどもその際目的外使用のため讓与の対象から外されし千百余坪については、耕作者の無条件耕作権放棄の快諾をを得、責任役員会・総代会の決議を経て、昭和四一年関東財務局千葉財務部に売払申請をなし、柦徒総代の尽力、柦信徒、関係各位の協力を得て、昭和四五年七月二九日漸くにして売買契約が成立し、二九〇四平方米余を金壱千参百弐拾万弐千五百円を以て買戻すことを得たり。その代金の借入については総代各位の特段の配慮を得。今茲に借入金の弁済完了せるを以て、些(いささ)かその功に報いんためその芳名を刻し、この碑を建立するものなり。
     昭和五一丙辰閏歳一月吉日
     当山第三五世 恵水謹誌
             (※以下に6名の名が刻まれている。)


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  1. 2012/04/15(日) 08:35:23|
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