写真でつづる流山の道 小林一茶と秋元双樹

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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小林一茶と秋元双樹

流山を行き来した文人といえば小林一茶でしょうね。そして一茶をさまざまに援助した秋元双樹。この二人の交流が流山の文化に一味加えています。俳句には詳しくない私ですが,一茶に会える感じの句碑を写真にまとめました。

地図のマーク①は「一茶双樹記念館」,マーク②は「赤城神社」,マーク③は「光明院」,マーク④は「流山市役所」,マーク⑤は「香取神社《向小金2丁目》」,マークはないが最後は,柏市「布施弁天」近くの「あけぼの山公園」にある。
※⑤「香取神社」は南東にスクロール。



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一茶双樹記念館


















2011_1023_093401-DSC04370.jpg夕月や 流れ残りの きりぎりす
                       文化句帖
 文化元年(1804)9月2日小林一茶が流山で詠んだ句。
 旧暦九月の作。この頃雨が多く、流山はとうとう洪水に見舞われた。家も立木も押し流されんばかりに荒れ狂った洪水が、夕方には漸くおさまり、空には淡い夕月がかかっている。どこかの物陰で、生き残りのきりぎりすが鳴き始めた。
 この句は、句碑を建立するにあたって、小林一茶寄寓の地保存整備審議会が選定したものである。
 書体は、文化句帖の所蔵者、新潟県新井市の入村公氏のご承諾を得て、同句帖から採った。
 石材は、一茶記念館長 清水 哲氏の協力により、一茶が生まれ育った長野県上水内郡信濃町柏原の黒姫山のものを用いた。
 なお、句碑は柏原から見守られる方向に建っている。


2011_1216_100219-DSC05101.jpg赤城神社参道石段脇にある句碑
石碑の上部には一茶の句
越後節蔵に聞こえて秋の雨
と彫られていて,下部には流山俳句会の人たちが書いた俳句が17句彫られているが,崩し字が判読できないためここに紹介できないのが残念。


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光明院句碑










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DSC00728.jpg長月朔日(ながつきついたち)
豆引きや跡は月夜に任す也 双樹
烟らぬ家もうそ寒くして 一茶

(意味)
九月一日
 うれしい取入の豆引だが、ああ疲れた。見れば一面の抜き跡。あとはお月さんにお任せして、さぁ引き揚げよう。 双樹
 そうだね。夕飯の炊事の煙があちこちから棚引きだし、大気がひんやりしてきた。まだ煙が立っていない家までも、なんとなくうそ寒い感じだよ。 一茶
(解説)
 これは文化元年(一八〇四)に、下総流山の酒造家で俳人の秋元双樹(五代目三左衛門)と、当時双樹の庇護を受けていた俳人小林一茶とが、双樹邸で詠んだ連句です。「豆引」というのは、大豆などを畑から引き抜く農作業で、往時の流山での秋夕の一景が詠み描かれています。
 なおこの句碑は双樹自筆の文字を拡大して刻まれ、昭和五十三年秋、双樹忌において両子孫が百数十年ぶりに対面して除幕されました。また本堂の右前にも別の双樹句碑が建てられております。


2012_0604_092852-DSC08380.jpg姉妹都市 長野県信濃町寄贈 句碑
【流山市役所前】
 この句碑は、平成九年五月に流山市と長野県信濃町との姉妹都市の盟約締結を記念して信濃町から寄贈されたものです。
 句は、発句集「おらが春」や「七番日記」などに掲載されているものです。
「ゆうぜんとして山を見る蛙哉」 一茶

姉妹都市盟約書
 流山市と信濃町との縁は、今をさかのぼること約二百年前、俳人小林一茶と秋元双樹との深き絆から始まった。
 俳句をとおし、心許せる莫逆の友となった一茶と双樹は、それぞれの故郷によって育まれた感性から、数多くの名句を残し、一茶は第二の故郷のごとく流山の地で、多くの句を詠んでいる。
 そして今、再び約二百年の星霜を経て、流山市「一茶双樹記念館」の開館を契機とした市民・町民の交流の輪が広がっている。
 こうした中、流山市と信濃町は、更なる交流の推進に向けて互いの長所を享受しつつ、それぞれの歴史・文化・風土や自主性を尊重し、市民・町民が未来永劫、友好と親善の絆を深めることを希求する。
 限りない未来に向けて、両市町の更なる発展を願い、ここに姉妹都市の盟約を締結する。
 平成九年五月十七日
            【流山市役所正面に設置されている上記句碑の解説板】




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2011_0922_132723-DSC04075.jpg 2011_0922_132839-DSC04077.jpg
香取神社(No.100)
一里塚の碑
 この 香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります
むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を植え生やし 旅人たちの目じる
しとも 暑い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは酷(きび)しくも美
しい 自然と人間の かかわりでもありました
 ここにも 一里塚があって 長い歳月の程を 朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた
榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
過ぎゆく 怱忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この
碑を建てました
昭和六十二年 秋
            氏子總代 水代一夫
            仝    下村信一
            仝    山崎清治

下陰をさがしてよぶや 親の馬   一茶
        ◆“忘れ去ることの忘却を想い”・・・このフレーズの真意は?



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柏市あけぼの山公園‘桜山’にある一茶句碑






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『布施東海寺に詣けるに、鶏どもの迹をしたひぬることの不便さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫、浦公英のほとりに散らしけろを、やがて仲間喧嘩をいく所にも始めたり。そのうち木末より鳩雀はらはら飛び来りて、心しずかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢に逃げ去りぬ。鳩雀は蹴合の長かれかしと思ふらん。士農工商その外さまざまの稼ひ、みなかくの通り。
 米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合うぞよ  一茶

一茶の俳文碑
 俳諧師小林一茶は文化九年(1812)二月十二日に流山の秋元双樹と連れだって東海寺(布施の弁財天)に詣で、ここで次のような俳文と句を詠んでいる。
 布施東海寺に詣(まうで)けるに、鶏どもの迹(あと)をしたひぬることの不便(ふびん)さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫(すみれ) 蒲公(たんぽぽ)のほとりにちらしけるを、やがて仲間(なかま)喧嘩(げんくわ)をいく所にも始たり。其うち木末(こずえ)より鳩雀ばらばらとび来たりて、心しづかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢(こずえ)へ逃さりぬ。鳩雀は蹴合(けあい)の長かれかしとや思ふらん。士農工商其外さまざまの稼(なりは)ひ、みなかくの通り。
  米蒔(まく)も罪ぞよ鶏(とり)がけ合(あふ)ぞよ     一茶
 一茶五十才の時の文と句である。(一茶の句集「株番(かぶばん)」に収められている一文である。)また一茶の七番日記によると、その日(二月十二日)は雨に濡れて流山の双樹の家に帰っていることがわかる。
 元来この文と句は、「米蒔(こめまき)塚(づか)・蹴合(けあひ)塚(づか)」などと呼ばれて来ているが、ここに「一茶の俳文碑」として建立するものである。
 碑文の文体は一茶の直筆を拡大して刻入したものであって、多くの人々が協力し合って建立したものである。
  昭和六十二年 五月十七日 建之
   小林一茶 俳文碑建設委員会


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  1. 2012/09/06(木) 08:33:14|
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