写真でつづる流山の道 流山発見;日光東往還(6)

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

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流山発見;日光東往還(6)

「日光東往還」を進みます。国道6号線の「旧日光街道入り口」から1kmちょっと行くと,「稲荷神社前」という交差点に出ます。その角にあるのが「稲荷神社」



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屋根の上にもキツネがいる造りは珍しいのではないでしょうか。

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境内にある「豊四季開拓百年記念碑」を見てみましょう。この前に立って読もうとしても,根気が続きません。写真に撮ってゆっくり読みました。するとこの文を書いた人の気概がひしひしと伝わってきて,感動を覚えました。開拓がいかに大変だったかがわかります。また初富から十余三までの地名の由来もわかってためになります。〝東京窮民〟についての本も見かけたように思います。〝先人の労苦を想う〟良い歴史資料でもあります。
当ブログをご覧の皆様,是非全文を読んでください。現地で読もうとすると,首を痛めます。
文中の〇数字は,下の注に対応しています。






豊四季開拓百年記念碑
明治維新の社会変革は 武士と此れに関連する各方面の失業者を①簇生し 兵乱と凶作等に拍車をかけられ 社会不安は限りなく拡大して行った 明治新政府が第一に考慮しなけれ/ばならぬ問題は 民生の安定であった 政府は失業救済 窮民対策として「不毛地開墾等の業を以て広く窮民に生産を与へ候より他無之 先近国より手始として 下総國小金 佐/倉等の原野開墾」を採りあげ 小金 佐倉牧を廃止し 東京窮民を救い 遊休労働力の生産労働力への転換と 耕地拡張生産増加を求め 明治二年民部省に開墾局を設け 三井八/郎右衛門等三十六名に基本金二十万両を貸②出し「③御東輦冥加役」の名目で 両牧の開墾会社を設立させた 政府は此の開墾地積を一万町歩と推定 一万戸の入植を計画し 各藩に/募集を依頼し 築地旧備前邸等で授産訓練を行い「東京窮民七千九百六十四人の内農業適宜の者六千四百六十一人」を 二年十月より三年八月の間に逐次入植させた/
入植者は「三ヶ年間衣食住は勿論万事世話致し 四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成 開墾入費を十ヶ年の内に会社に返済致候得ば会社一般独立農夫」となり 共の/後自力新開は地主となれる規定で 割当面積は一人平作地五反家作地五畝 三町歩まで自力開墾割渡しを受けられる筈であった 野付村よりの通い作民は自費開墾であった 会社/は一等富民 二等富民 ④上中下力民 一等富民小作人からなり 開墾地は会社への下付で 所有権は社員たる一等富民にあるとされていたのは 入植者の思わざる処であった/入植者即ち力民以下は掘立長屋で 米飯一人一日雑穀四合五勺を給され 其の他入費一切は計上され 二ヶ年にして一人当四十二両の負債が生じた 会社の管理督勵過酷言語に絶/し 労働過重心身共に疲弊困憊し 脱落逃亡が続出した 会社は経営よろしきを得ず前途暗澹 四年七月政府に七万両の資金借入を願って不許可 五年四月基金返納免除の嘆願等/の⑤弥縫策を弄しながらも 遂に五年五月事業未だ端緒のまま解散するに至った 六年開墾事務は県移管となり 社員は直ちに申請して地券の交付を受けた 地券面六千八百七十二/町歩と言え 実面積は数倍で 後に豊四季で一社員の地券十五町歩が 岩倉具視買受時には五十町余あった 力民 小作人は開墾地所有権の歸屬 債務処理 小作料問題等で会社/と紛争を生じ 同年県は残地三千七百十二町歩を 開墾者六千四百九十七人に対し 一戸宅地五畝耕作地五反の地券を下付したが 七年開墾者は之を不服とし連盟を結び 県 農/商務省に再参歎願したが効無く「開墾地所有権獲得の訴訟」を千葉地方裁判所に提出し 一敗地にまみれるや 東京上等裁判所更に大審院と上告を續け 二十三年帝国議会開設を/俟(ま)って 国会請願まで行うに至り「全国著名の富商を相手取り 権力不適の訴訟しばしば敗れて撓屈せず」と全国の視聴を集めた千葉県政の大問題に発展した 此の二十年に及ぶ/抗争の為に「住家は雨露を凌ぐまでにて ⑥眷族襤褸を纏い」畠は「枯痩の色を呈し牧穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず その他悉く四方に離散し⑦」 一戸の人煙を/見ざる所あり」と 千葉県令を歎息させるに至ったが 此の時既に分与地は皆無となっていた 翻って 入植後一年にして落伍逃散続出し 勤勉実直な者のみが茨の道を切り拓い/て行った 東京窮民入植二千三百二十五戸の中残留一千五十戸三千六百九十二人 野付村移民と通い作人四百八十四戸一千四百三十人 此れ等の人人の血と汗で一歩ずつ開拓が進/み 二年十月最初の着手初富から順次に 二和 三咲 豊四季 五香六実 七栄 八街 九美上 十倉 十余一 十余二 十余三の村名が立てられた 然し十三年には又東京窮民/八百四十五戸脱落し 十六年授産処分を受けた者 新田定着農民二千三百七十四戸 内野付村移民一千百八十戸 通い作人一千七十四戸に対し 東京窮民は僅か百二十戸に過ぎな/かった 此の時豊四季は地積六百十八町歩 東京窮民八十戸百六十三人 野付村移民及び通い作人百二十二戸四百三十七人 總て此れ六百人であった/
懐(おも)うに 開拓民が ⑧赤手空拳荒蕪の原野に挑み ⑨陋屋は風雪を凌ぎ難く 弊衣は寒暑に耐え難く ⑩箪食豆羹 飢餓線上を彷徨するの時 四面楚歌の中に外部圧力と闘いつつ ⑪孜孜/として 麦陸稲甘藷野菜の栽培に暁暗星を戴く忍苦を重ね 蓑木釘の副業に寒夜深更に精魂を傾け 隣保互助漸くにして盛運の基盤を築いた 三年十二月我が先人未来をかけて村/名とした豊四季 其れは寔(まこと)に美しい平和と幸福を謳っているが しかく簡単に地上の楽園は到来しなかった ⑫筑波颪颯颯たる曠野に痩躯を曝し 草蒸す叢林に吾か非力に自ら鞭打/ち 伸び行く郷土の將来 子孫の行く末をかけて 四季豊かに稔れと念じつつ 一鍬一鍬と開拓の努力は 連綿百年の星霜を経て 現代の繁栄を招来した 茲に百一年の第一歩を/踏み出すに当り 静かに先人の労苦を偲び その教訓を学び 今日への感謝と共に 展開する明日への資とする為に 此の碑を建て 以て 永く先人の志を伝える/
昭和四十八年四月吉日                山野辺南薫 撰竝書
〔1902字;引用符は除く〕
【注】
‘/’は碑面での改行を示す。
① 簇 = 現代表記では〝族〟に書きかえることがある。ゾクセイと読み、〝群がり生える〟意。
② 出 = 山を二つ重ねた字形であることから、下の山の字を〝々〟と置き換えることから、山の下に々を書いたものだろう。後出の字形すべて同じ。
③ 「御東輦冥加役」の読みと意味は未調査。
④ 上中下力民 の意味は未調査。
⑤ 弥縫(びほう)= 彌縫;欠点や失敗を取り繕うこと、また一時的間に合わせ。
⑥ 眷族襤褸を纏い(けんぞくらんるをまとい)= 親族一同ボロ衣を着て。
⑦ このカギカッコは原文[碑文]通りだが,誤りだろう。
⑧ 赤手空拳(せきしゅくうけん)= 手に何も持っていない事;
  荒蕪(こうぶ)= 土地が荒れて雑草の茂るがままになっていること。
⑨ 陋屋(ろうおく)= 狭くみすぼらしい家。
⑩ 箪食(たんしょく)= 一盛りの食べ物;
  豆羹(とうこう)= 豆(たかつき)に盛ったわずかな量のあつもの。
⑪ 孜孜として(ししとして)= 熱心につとめはげむさま。
⑫ 筑波颪颯颯たる(つくばおろし・さつさつたる)


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  1. 2013/06/15(土) 08:43:52|
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