写真でつづる流山の道 流山発見;諏訪神社(10)

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

流山発見;諏訪神社(10)

「諏訪神社」を巡るシリーズの最後に,境内に置かれている宮司・古谷金祐氏による戦争体験の碑を紹介します。やや個人的すぎることかもしれませんが,石に刻んでまで伝えたかったことを考えると,やはり読んでもらいたいのでしょう。全文を書きます。
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曩(さき)の大戦(大東亜戦争) 復員の碑    《振り仮名は投稿者》
 御境内に、この碑を建てますのは、私的に過ぎると思いますが、昭和二十年八月、曩の大戦終結の際の、復員者全員に通じる一話として、建てさせていただきます。
 私は、あの終戦の際、ニューブリテン島・ラバウルに在って、第八方面軍の、野戦照空第五大隊本部の附属班長であった。
 終戦の通報を正式に受理したのは、十六日正午であった。夕食の時ともなり、班員は誰も箸を手にせず、悲嘆・慟哭は言語に絶した。
 折しも私は、偶々本部に配属されていた、安藤軍医殿のお呼びに依り、陣屋の前を流れる、小さなマタネ川の少し上手の医務室に出頭、狭い蚊帳の中で、縁の欠けた小鉢に椰子油を注いだ灯火を挟んで、軍医殿と対面して正座、軍医殿は低い力の籠った声で、「戦争は終わったね」、暫く間を置いて「あの戦争はなぜ勃発したのか」「なぜ負けたのか」と語り出し、「米国は明治の初頭、太平洋に進出、数多くの島々を買収や武力に依り、やがてはフィリッピンを属国とするまでの経過、日露戦争との関わり、満州鉄道共同経営提案に対する日本の不同意、米国と対立、満州の権益擁護出兵、海軍の軍備制限条約、満州の群雄割拠、柳条湖事件、軍の政治関与、満州事変、コミンテルンの策略、盧溝橋事件、南京事件、外交の失策、米英の国民政府支援、米国との通商交渉と最後通牒、知彼知己百戦不殆、大戦略なき開戦、作戦の齟齬、物資の欠乏、斯くの如くにして、終に将兵決死殉国の奮戦も空しく、こと茲に至った。」
 「斯く相成ったからには 今後は、このラバウルで散るべき生命を 祖国の復興に奉げる。それが亡き戦友、靖国の神々に報ゆる唯一の道である。互いに健康に留意して、至難であろう困難に打ち克ち、道義国家として、復興の道に邁進しよう。私は、このことを話したくて来て貰ったのだ。各班の兵隊にも伝えて欲しい。」
実に理路整然、一時間余に及んだ。
 この期に、この識見に感銘、感謝と決意を述べて退出しようとしたら、待つようにと手真似をされて 行李から四合瓶を取り出されて、「私は、酒を嗜まないのだが、愈々最後の秋のために蔵って置いたのだが」と 自ら二つの軍隊茶碗に並々と満たされて、「将来の活躍を誓って乾杯」と右手に茶碗を高く挙げられた。私も続けた。
班に戻った私は 班員を前に、軍医殿との一部始終を語った。誰の顔にも、灯火の明かりに、喜色が浮かんだ。
 私は一枚の白紙を探し出して、「祖国日本は、歴史で知る如く永久に不滅なのだ。我々はこの地で、決死殉国の覚悟で今日に及んだ。今後は、祖国復興に、余命を捧げるべきである。この決意を『神州不滅』を囲んで寄書をしよう」。それがこれなのです。
《南海諸島の地図と寄せ書き》
 軍医殿は、帰国後上田市で、累代の安藤病院院長をなされ、一昨年逝去なさいますまで親しくしていただいた。いつでしたか、この寄書のコピーをお送りしたら、ご返事に「あの寄書は洵(まこと)に貴重だ。あのとき、良く書かれたものだ。私も、あの時の気持ちが蘇った。早速、額に収めて院長室に掲げた」と。私もそれに倣って額に納め社務所の廊下に掲げて今日に及んだ。
 今年私は九十六叟。六十三年前のあの時の決意を思い浮かべて、この碑を建てました。
  平成二十年八月十五日         宮司 古谷金祐


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「寄せ書き」

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  1. 2013/10/07(月) 07:06:00|
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