写真でつづる流山の道 江戸川の渡し跡

写真でつづる流山の道

流山市内の道をすべて歩きました。道すがら目にしたものを写真で紹介します。流山市限定ですが、他の場所に共通するテーマもあるでしょう。あなたの地元を歩いてみませんか。

江戸川の渡し跡

明治から昭和にかけて,埼玉県と千葉県を結ぶ渡し船があったそうだ。流山市に渡し跡は8か所あり,以下に紹介する。江戸川の土手を歩きながらそれぞれの場所に立つと,交通手段としての船に思いが及ぶ。自転車で走ると,つい見過ごしてしまうので,一つずつ歩いてみたいものだ。流山市発行の「流山市観光マップ」にはそれぞれの正確な位置が記されているのでとても役に立つ。以下の写真には,それぞれの標柱に書かれている解説を書き出してある。

2011_0518_093724-DSC02815渡し跡 2011_0518_093751-DSC02816渡し跡
】『深井新田の渡し跡』
『深井新田は江戸時代の江戸川開さくで分断された地域で、対岸に耕作地を持つ人も多く、認可は明治十年六月だが、江戸時代からの古い渡しである。』

 流山市西北端,利根運河が江戸川に流入する地点から500mほど北にある。「海から35km」地点の少し北になる。水田を見渡すのどかな風景が広がる。

2011_0519_090003-DSC02860 渡し跡
】『尼谷の渡し跡』
『平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、三十人ほどが乗れる大型の舟を使用し、時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。』
 パノラマ写真にしてみた。太古の昔は遠景の斜面樹林あたりが実質の江戸川岸だったのだろう。当時は渡し場がこんなに高い位置にあったはずはなく,もっと江戸川と水田との水が目の高さにあったと想像される。


2011_0519_090910-DSC02863渡し跡 2011_0519_090948-DSC02864渡し跡
】『六兵衛の渡し跡』
『別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。作業場(対岸の耕作地や流作場)への渡しとして昭和二十年頃まで存続。』
“流作場(ながれさくば/りゅうさくば)”とは“水害を受けやすい田”のこと。 
「海から32km」地点に当たり,新川第二水門と排水機場がある。今上落(いまがみおとし)川と田んぼへ通じる用水路を管理する重要な位置になっている。振り向いて江戸川を眺めると,当時の人々の行き来が見えてくる・・・ようだ。


2011_0519_092005-DSC02867渡し跡
】『半割(南)の渡し跡』
『三、四人が共同で運営、昭和二十年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預けることが多く、「馬船」と呼ばれる大型の舟を使用した。』
 「海から31.5km」地点に当たる。常磐自動車道と流山有料道路(500mか600mの区間で100円取られるのだ!)を結ぶ流山インターチェンジがすぐそこだ。









2011_0519_093158-DSC02871渡し跡 2011_0519_093243-DSC02873渡し跡
】『羽口の渡し跡』
『流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。』
 遠景にはクリーンセンターが見える。そしてサイクリング道路が延びている。


2011_0519_095000-DSC02887渡し跡 2011_0519_095013-DSC02888渡し跡
】『矢河原(やっから)の渡し跡』
『「加村の渡し」とも言い昭和三十五年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にした。』
 矢河原でヤッカラと読む。群馬県の八ッ場はヤンバとはとても読めないが,日本語の自由奔放さを認めよう。右の写真のここに今年(2011年)桜の木が植えられ,来年は花見ができるのではないか。流山市中心部に最も近く位置する所だ。ここから南へ200mほどの所に,今上落川が江戸川に流入する地点がある。昔の流山の雰囲気が伝わってくる。


2011_0519_100530-DSC02895渡し跡 2011_0519_100541-DSC02896渡し跡
】『丹後の渡し跡』
『「羽口の渡し」と並ぶ公営に渡しで小金道の一部として三艘の舟が用いられていた。新選組が来流時に利用したとも言われる。昭和十年の流山橋架橋で廃止された。』
 眼下の道路は流山橋へ向かう車で混雑する所だ。背後の江戸川にはには(以前紹介した)古い橋脚が残されている。


2011_0519_101840-DSC02902渡し跡
】『幸房の渡し跡』
『「岩野木の渡し」、「七右衛門新田の渡し」「幸房の渡し」と様々な名称がある。江戸川の渡しは千葉側と埼玉側の地名を交互につけたが、自分側の地名で呼ぶことが多い。』

※土地の古老は「幸房」を「コウボ」と呼んでいたそうだ。
「流山市立博物館調査研究報告書10 河川と流山」(p.110)




 江戸川の堤防と河川敷が整備されてきれいなっている。「海から26.25km」地点近く。【1】『深井新田の渡し跡』から9kmほどの間に8か所の渡し場があったことになる。現在では(常磐高速道は除いて)玉葉橋と流山橋との間の,8kmの間に2本の橋があるだけだ。ということは,昔の方が人々の通行の便利さは良かったのかもしれない。さすがに1kmおきに橋を架けるのは大変だ。




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  1. 2011/10/18(火) 15:03:42|
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